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実は低音が弱点なのではないかという結論。
固い音質にこだわってきたけど一回それは忘れた方がいいみたいだ。
舌骨の筋肉を使えば声帯はたしかに締まるけど、それは「締まる」であって「閉まる」じゃない。
伸び悩みというかちょっとした踊り場感を覚えている。すごく疲れている気もする。単純に休むべしということなのか。
いずれにせよ首や舌や顎の筋肉に頼らない発声を覚えないと。喋り声もそこ主体だし普段の発声は最悪もいいところだからな……
母音を作るときも顎スタートな感じがすごくある。これをなんとか取っていかないといけないわけか。
眠い。
誰も聞かない歌なら虚しいだけじゃないか。
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ボイトレとは本当に、理解分解再構築だった。
声を出すときに、自分がどの部位をどのように使っているのかを理解し、その無意識にごた混ぜにしている部位を一度バラバラにし、それを組み合わせて声を作り直す。
「小学生の手と足が一緒に出ちゃう行進」みたいな、感覚の自覚が未分化な状態を一度解いてやらなくちゃいけない。
多くの人にとって、声帯は舌と区別されてないし、声と息は同じものだし……などなど。
今日学んだことは大きかった。
つまり、どんな人でもしゃべるときには共鳴を使っているのであって、共鳴を使っていないというのはありえないということだ。
声帯で鳴る基音は本当にただの線のような音でしかない。
共鳴でそれを広げて初めて言葉なり音なりにしていくわけだが、その自由度というのは実はすごい。これは実感しないと本当にわからない。
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脱力、共鳴、そして適度な力配分
空気は腹筋で送り出す
仕事せな
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声のポジション、というのが感覚としてわかってきた。喉で声を出すのではなく狙ったポジションに声を作る、というのが適切な表現であることはまさに実感されているのだけど、しゃべりが喉声、つまり普段から外筋優位の声帯閉鎖をしている人には、この表現が納得されることは難しいんだろうと思う。
俺も本当につい最近の最近までわからなかったわけで。もっと早く分かってたらな、なんてのは言い出しても仕方のないことで。
閉鎖の仕方(どれくらい閉じているか、どれくらいの厚さか)によって、最適な息の量は変わってくる。
フェイクっていうのはそこのところの段階的な切り替えを意識的に操っていくことだから、ポジションのイメージと必要な呼気量を体感的に知っている必要がある。
スケール練っていうのはそういう意味で大切になってくる。正しい音程を知ることが目的なのではなく、音階に合わせて段階的に体の状態を変えていけるようになること、その段階のあり方を覚えこむことが目的なのだ。
で、結局高音は喉に力を入れない、と。
少し無理したいときは、ちょっと締めて息の量を減らす、のが正解か。
息混じりの声、というのは息を混ぜた発声ではない。声帯の閉鎖をあえて緩めにした声だ。閉鎖が緩ければ声帯の隙間は大きくなるのだから、そのぶん空気漏れの度合いは当然大きくなる。
(加えて、緩く締めているぶんきちんと音を出すには多くの空気量が必要になるから、自然と息の混じった声になりやすいはず)
普段の声を息を多めに出す、というのとは全く違って、閉鎖を緩めた感じの裏声に近い声を狙って出していく、そのために必要なだけの(普段より多少は多いかもしれない)息を出す、という意識に持っていったほうがいいのかもしれない。
「なんか歌上手くなったね」って弟に言われたのが今日のハイライト。
歌うときに喉を力ませないで腹とポジションのバランスを意識する感覚、それともう少し喉を開いて歌うっていうことを染み込ませたい、というのが今日見えた課題か。