「○○したら人生変わった」という言いぐさのこと

いま書いているものが結局ひとつのビルドゥングス・ロマンのようなものになるかもしれない、という予感を覚えている。

まあそうやって枠を作ってしまう必要もないのかもしれないけど、でも素直に描いていったらそうなる気もする。

これを紙芝居のシナリオに落とし込んでもらうのは至難の業かもしれない……けど、ある種の「わかりやすさ」みたいなものに現状ひどくうんざりしていて(誰もかれもわかりやすいものばっかり創っていてうんざりする、という意味ではなく、自分がこじつけやリアリティの放棄によってお粗末なコラージュを作ってしまおうとすることにうんざりする、という意味だ)、なるべく「ちゃんと、人間らしいものを描きたい」という欲が出てきてしまっているので、いまのところそこに逆らうことは難しそうなのだ。

とりあえずまあ、そういう方向でうにゃうにゃやってみて何が出てくるかはお楽しみ、という感じで今は書きなぐっている。

どうなることやらといった感じだ。

 

ビルドゥングス・ロマン、なんて用語っぽい言葉を使うのはいささかこっ恥ずかしいというか、こういうのって後々間違った用法で使っていたのだということが判明すると多分「若気の至りー!!!」ってなって恥ずかしくなるんだろうなという気がするけど、とりあえず今この文脈では「主人公が成長する小説」程度の意味合いで使っている。

じゃあそう言えよ、ってことなんだけどね。

ごめんなさいもういいです、かっこつけてるんです多分。許してください。

 

成長を描く、というのはしばしば勘違いされているような気がする。

僕たちは生きている限り成長している。少なくとも、歩みを止めて向こう云十年同じ生き方をすることを知ってか知らずか選んでしまった人以外は、なんらかの形で成長しているはずである。

その過程を思い出せば、自明なほどに僕たちは「成長しよう」と思って成長なんかしていない。ただ歩いていたら見える風景が変わっていた、というくらいのことで、もちろんいろんな概念や知識を当てはめることで「ああ、自分はあのときのあれをターニングポイントにしてああいうふうに成長したんだな」と遡行的に理解することはできるかもしれないが、それだってよっぽど自覚的にやらなくては出来ない話なのであって、つまり僕たちはたいてい自分自身の「成長」なんてものについてはひどく無自覚であると思う。

にもかかわらず、物語の中で「成長を描く」というと、ある出来事をきっかけに主人公の考え方がすっかり変わってしまったり、いきなり頭でも打ったみたいに勇気やら他者へのまなざしを獲得したり、ということになったりしてしまう。

自分で書いていてこの手の罠に落ちてしまうこともとても多いのだけど、それをやってしまうと本当にどこかちぐはぐになってしまうので、なるべく今はそれを避けるつもりでやっている。

たいがい、僕たちはいつも通りの情けないくらい自分らしい日常の中で、恥ずかしがったり意を痛めるような憂鬱を味わったり笑ったりして、その結果ちょっとだけ成長しているのであって、だからこそ、リアルに成長を描こうと思ったら、変なターニングポイントなんか設けたりせずに出来事全体を忠実に扱っていくほかないように思うのだ。

 

Facebookで誰かがシェアしていた「大学生のときにやたらみんなが憧れてやまないウユニ塩湖に行ったけど、別にそれで私の人生は何一つ変わらなくて、南米から日本に戻ってきたとき私は相変わらずそれまでの私だった」みたいなブログの記事をこのあいだ読んだけれど、まあそうだよなあと思ったものだ。

ウユニ塩湖に行ったこと。記憶の片隅にこびりついて、じわりじわりと自分の人生になんらかの影響を及ぼしはするかもしれないけれど、その出来事ひとつで180°何かが変わるなんてことはありえまい。

これこれの出来事で私の人生は変わったんだ、なんて言い張る人がいたら、その人にとっては「自分は一つ一つの出来事の中で変わっている(と思い込んでいる)」のが常態であるにすぎないのだろう。それが迷妄だと僕たちが指摘するのもばかげているくらい強固な信仰のもとに人生を組み立てているのだ。たぶん。

 

それでも僕たちは日々ちょっとずつ、知ってか知らずか成長している。その、知ってか知らずか、のあり方を描き出すことが、物語の中で成長を描くということなのではないか、なんてことを生意気にも思っている。