裏声を混ぜること

裏声を混ぜる、ということの意味について一つわかったことがある。

の前に。

このブログで歌に関して書いていることときたら、よく考えれば当たり前のことばかりだ。
なんというか、頭のいい人からすれば当然もいいところ、いちいち確認するほうがアホくさい、ということもあると思う。

ただ、ここで色々と確かめ確かめやっていることは、素質のない人間がいかにして素質のある人間に追いつくか、という作業にほかならない。
そのためには、面倒ながらいちいち一つ一つの問題点を潰していくしかないのだ。

加えて言えば、考えてみれば当たり前だというのは翻るに、よく考えてみればわかる程度には合理的だということだ。
筋道が通っているからこそ、聞いてしまえば当たり前ということになる、とも言える。

さて、気がついたのは「裏声を混ぜる」ということについてだ。

世の中には多種多様な喋り方がある。
言い換えれば、喋るときの筋肉および体の使い方は人それぞれだということだ。もっと極端に言うなら、使い方に偏りがある、という言い方にもなるだろうか。

喋るときの筋肉の使い方が、歌を歌うときの筋肉の使い方から隔たっていれば隔たっているほど、普段の喋りの延長で歌うことは難しくなる、とも言える。

……話が脱線しかけた。裏声の混ぜ方の話に戻ろう。

大前提として、もちろん声門を閉じる筋肉と、裏声の筋肉(声帯を引き延ばす筋肉、輪状甲状筋)とは、分けて考えなくてはいけない。
のみならず、歌う人間としては、前者(についても実はさらに腑分けができるが、それについてここでは触れない)と後者のそれぞれがはたらいている状態を、分離して認識・体感できなくてはならない。
つまり、裏声を出しているときと地声を出しているときで、喉のどこがはたらいているかを区別して認識できていなくてはいけないということだ。
この話においてはそれが大前提になる。

そのうえで、裏声を混ぜるときのポイントとして言えるなと気づいたことが一つある。
それは、「発音した子音・母音をそのまま伸ばそうとしてはダメだ」ということだ。

ずいぶん長いことこれをやっていたせいで、喉を締めたり鼻を詰めたりしたような発声をますますこじらせていた。
でも、考えてみれば、子音・母音というのはそもそも地声成分を作る筋肉のはたらきで作るものだ。
話し声というのは、基本的には地声成分を作る筋肉だけをはたらかせて発声するものにほかならない。
となれば、その子音・母音をそのまま引き伸ばす感覚を持ち込んだって、そりゃあ裏声など混ざらないに決まっている。

子音・母音を地声の筋肉で発したら、その筋肉のはたらきはそれ以上増やしてはならないのだ。
そして、そのままの状態を保ちつつ、裏声の筋肉を使って声帯を引き延ばしていく。
このとき、裏声の筋肉は、地声の筋肉の延長としては全く作用しない。
「アイウエオ」と「言った」ときの感覚を引き延ばすような形では、裏声というのは決して混ざらないのだ。
「ア」を発音したら、その発音をそのまま強めていく、というような形で裏声を混ぜるということは、断じて無いと言っていい。

加えて言えば、高音に関しては、 声帯の閉鎖(地声成分の筋肉)というのは、普段の話し声よりずっとわずかでよくなる(ただ、甲状披裂筋がうまく使われていないといけない、という問題はあるものの)。
裏声の筋肉による声帯の引き伸ばしによって、話し声を出すときよりもずっとわずかな声帯の閉鎖・固定が補われることで、高音が出せる状態がつくられるからだ。
言ってみれば、細いギターの弦をつくってやるようなものだ。硬さをわずかに与えたうえで、引き伸ばしによる閉鎖を加える。
輪ゴムでイメージしてもいい。輪ゴムの両端をつまんで前後に引っ張るのが裏声の筋肉で、輪ゴムそのものを固くするのが地声の筋肉だとする。
声帯はある程度硬さを持ちつつ閉じることで声を出せるようになるので、地声の筋肉で輪ゴムに硬さを与えつつ、裏声の筋肉で輪ゴムを伸ばす(輪ゴムを縦に伸ばせば輪は閉じるわけだ)必要がある。

すごく説明しづらいのだが、実際言っていることは実はすごく単純だ。
かつ、この説明はある程度と思う。hiA程度であれば、連続やロングトーンにそれなりに耐えられるようになった(前はmid2Eすら出なかった)からだ。こなれてくればhiCくらいまでは出せるようになる感じも見えている。

どうしてこうも説明しづらいのかといえば、適切な概念がないからなのだが……いずれ自分がよっぽど歌えるようになったら、まとまった文章を書いてみたいと思う。
少なくとも、話し声における偏りという素質によって、歌をうまく歌えず苦しむ人にとっては、大変な助けになるはずだ。

疲れからか思考が狭まっている。
人との関わりが薄れているのも問題だ。相対化できないのは危険だし、関わること自体もますます怖くなる。他人が怖くなる。
でも、そうやって怖がって閉じこもれば閉じこもるほど、摩擦に対して敏感になり、優しさを失っていく。自分の見方を絶対視することになる。人が古くなり固まっていくだけの、そうして最後には動かないものになっていくだけの存在なのだとしたら、たとえ不完全だとしても、動き続けたほうがいいんじゃないか。傷つこうとも。
優しさを失って、鈍感な身振り手振りで人を傷つけたり、いちいち些細なことで過敏に傷つくくらいなら。

***

母音を一つ一つ気をつける、というのは違うのかもしれない。
歌を喉の奥で歌い、言葉としての音には口先で変えていく。
原音は喉の奥で奏でる。言葉とメロディーは切り離すのだ。
ラララ、と声で作るのではない。
ハミングのような、文字化できないただの歌声をまず作って、それを口腔と舌の運動でラララという形にする。
でなきゃメロディアスな歌は歌えない。

12時間寝たい。

12時間寝てなお6時間しか経ってない、みたいなのが理想。

喉の痛みも眠気もニキビも今日がまだ水曜日だということも明日も相当残業する予定だということも明後日がなお金曜日であることも全てが許せん。

なんとかなれー!!!

p.s.
久々にちらっと空想したらとても楽しい予感がした。フィクション書きたさ?

トライアンドエラーの中でもがき苦しむ男……そう、それが僕。

ということで今日は何回やってもhiBが出ませんでした。絞り出して聞き苦しい音を出すことは可能でしたけどそんなの論外なわけで。
とりわけウ段だとへろへろの裏声でしか出せない。
まああからさまに疲れが溜まっているし、休んだほうがいい部分も大いにあるんですが。

まあでも一個収穫だったのは、いわゆる混ぜ声、それも裏声強めの混ぜ声を初めて意識的に出せたことだ。
地声成分の比率を意図的に落とした、とも言えようか。
本当はこれくらいでちょうどいいんだよ、的なバランスで歌ってみたら、そりゃあそりゃあ普段使っていない喉の動き方を要するから違和感はすごい。
でもmidGくらいまではそこそこ余裕で出せた(油断して張り上げようとすると途端にへろへろになるが)。

今日ひとつ気づいたことがあって、同じ音高でも違う音質で歌えるしくみは、声帯の厚さと引き伸ばされた長さによって反比例的に決まることにあるということだ。
ギターの弦で実験するとよくわかるけれど、たとえば同じオクターブでEの音を出そうと思えば、6本の弦のそれぞれで出すことは可能だ。
つまり、太い弦になればなるほど、よりブリッジ寄りのフレットを押さえることで、同じ音を出すことができる。
ところが、太い弦になればなるほど音は鋭さを失ってぼやけた感じになる。同じ音高にもかかわらず。

詳しいことは調べてみてもよく理解できなかったけれど(三角関数がなんの役に立つかなんて文系じゃまず教わらないのだ)、これには倍音のいわば配合比率が関係しているらしい。
専門的な人に話を聞けばいくらでも詳しいことは教えてもらえるだろうけれど、要は基音(先のギターの弦の例えで言えばEの音)以外に混ざっている音の成分がどのようになっているかによって、音色というものはいかようにも変わりうるということだ。
極端な話、ピアノとギターで同じ音高を出してなぜ違う音が出るのか、という問いの答えもここに帰着する。

声の話に戻ると、柔らかい・鋭い声の違いというのも、声帯の引き伸ばしと閉鎖による固めのバランスの違い、つまり揺れて声を作る部分の固さと長さのバランスの違いに帰着できる。
柔らかい高音を出すには、声帯を引き延ばしてわずかに固さを与える、ということが必要になるし、鋭くしようと思えば思うほど固さを加えてやる必要がある。

この点について一個氷解した疑問があった。


アレクサンドロスの「ワタリドリ」だ。

この曲を聴いていてずっと、サビもたしかに地声感を失わせることなく出しているのに、どうしてBメロまでの部分より若干ふにゃふにゃした(鋭さのない)音に聞こえるのだろう、ということを疑問に思っていた。
簡単に言えば、音高の作り方が不連続的だからということになるのではないか。
つまり、声帯の引き延ばしと固さのバランスで音階を作っていく、その様子を仮にグラフ化したとすると、メロとサビではそのグラフの形が違ってくるのではないか。

下から上まで同じ音質で出す、ということにこだわる限りは、発声のしくみの制約上、一定の声質で出すことを余儀なくされるのではないかと思う。
少なくとも、地声感maxで上音がバリバリに聞こえる、みたいな声では上まで上がることは不可能だ。
それが換声点というものとなって現れてくるのかもしれない。

絞り出してhiCが出た。

閉鎖をやたら強めたせいで全く安定しない、といった具合だったけど。

どの閉鎖筋を使うかによって口腔の中での声の響き方が変わるわけだけど、交差筋のはたらきを強めれば強めるほど声が縦方向に響くようだ。
無理なく出すには、微妙なレベルで縦方向の響きが感じられている状態を保ちつつ、ファルセットを出す筋群を働かせることが必要、という感じか。

まだ交差筋の使い方がこなれていない(油断すると側筋優位になってピッチが落ちる)ので、そこが多少自在になれば、締めなきゃいけない、みたいな意識から多少解放されるだろう。

あと、やはり歌唱の基本は裏声の筋肉だ、というのは今日すごくよくわかった。
ワンフレーズ歌うときには、そのフレーズ内で裏声の筋肉群のはたらきを途切れさせない(裏声を出しっぱなしにしておく)のが大事。
楽譜でいうところのスラー(なめらかさ)を実現するのは、裏声の断続的な動きだ、と言い換えてもいい。
もっと拡げて、音の緩急・高下という意味での楽譜上の表現を実現するのはすべて裏声だ、としてもいいのかもしれない。
歌においてあらゆるカンタービレの部分を担うのは裏声だ、と弟の合唱の先生が言っていたと聞いたことがある。

成果が出ていないわけじゃなさそうだから、粘り強く、かといって無理をせず、やっていきたいところだ。

※※※

それともうひとつ、重要なことだと気づいたのは、喉でビブラートをかけにいっては絶対にダメだということだ。
大雑把に言えば、筋肉を揺らしてビブラートをかけにいくと、喉の状態が崩れて声の安定が失われることになる。

若干勘違いを招きそうなので2点補足しておく。

ひとつは、喉を揺らしてビブラートをかけにいくのは禁じ手だけれど、ビブラートがかかる状態に喉を持っていく、というのは技術としてありうるということだ。
それはあくまで「良い発声をすれば勝手にかかるビブラート」がかかる状態へと、喉を移行させにいっているにすぎない。
意図的に喉を揺らすのとは重大な違いがある。

もう一点は、正しくやれば、ビブラートは練習可能だということだ。
一点目の延長として考えればいいと思う。つまり、自然にビブラートがかかる状態を探りに行く練習、あるいは自然なビブラートがかかる際の喉の状態を再現する練習、と考えれば、きちんと意味を持ちうるということだ。
逆に言えば、意図的に喉を揺らしてビブラートを作る、というのはあまり意味を持たないだろう。

当座ビブラートを欲していない自分は、ビブラートを手に入れに行くより、勝手にビブラートがかかる声を出せるくらいに微調整のきく発声をまず目指したい。

腹式呼吸の本当の意義

ミックスボイスにつながるチェスト域の出し方をつかめたと思う。あと少しのところまで来ているはずだ。
思ったより喉の閉鎖具合というのはずっとわずかでいいんだという感じ。
今まで、張りあげないと高音は出ないんだと信じ切っていたから、ようやくその認識が改まりそう。

あとは、実は息の使い方をずっと履き違え続けていたんだということをここにきて理解した。
しゃべるにせよなんにせよ、普段あまりにも息を使っていなかったから、小さい声しか出なかったのだけど、そもそも声というのは声唇の震えで出るものなのだから、震えさせるための息が不十分だったら声なんか出ないはずだ。

たぶんこの段階でこそようやく腹式呼吸というのは活きてくるんだと思う。
正しい声帯のセッティングができてこそ、ようやく、というか。
口腔〜喉に力を入れない呼吸を体幹の筋肉を使って行う、というのが腹式呼吸の意義だけど、それは声帯の準備が充分にできてこそ活きるわけだ。
腹式呼吸をしたところで、声帯の状態が悪ければ、悪い声が大きな音量で出るにすぎない。
喉と呼吸はまず切り離して考えるべし、ということの意義もここにある。

たぶんあと少しのところまで来ているはずだ。5月に間に合えばいいのだけれど……。

喋るようには歌えない不自由な僕らのために

喋るように歌え、という言葉がある。

それが「喋り声を出すように歌え」という意味に捉えられるべきかどうかというと、たぶんそれは圧倒的に人による。
端的にいえば、喋りの発声がいい人には当てはまる、逆もまた然りということだ。
話し声や話し方にクセのある人は、そのままでは歌えない、とさえいえる。

ただ、それは逆に言えば、アプローチは二つあるとも言える。
話し声を良くして、それをそのまま歌に持っていく方向。
あるいは完全に歌と話し声を切り分ける方向。
ミュージカルなんかは前者だし、小田和正なんかはわかりやすく後者だ。

花たんというニコニコ界隈で活躍する歌い手のライブ映像を見たことがある。
MCでは鼻につまったような潰れた感じの声で(人のことなんかひとつも言えないクセに恐縮だが)しゃべっていたのに、歌い出した瞬間から全く別人のような声を出していて、驚いたというより目を見開くほど感動した。
あのレベルまでいくと、意識的にモードを切り替えているとは思いがたいけれど(いや、もちろん切り替えているのだけれど、なんというか切り替えの次元が違う。歌うからこういう声の出し方をしよう、なんてちゃちな話でなしに、「歌おう」のスイッチ一つで済んでいる感じがある)、話し声と歌声はまったく別だと思ったっていいのだ、と考える一つのきっかけにはなった気がする。


そして、歌と喋りを切り替えなきゃいけないタイプの人にとっては、おそらく上に述べた花たん氏のように、ちゃちなレベルの切り替えではなしに、全面的なモード移行ができるようになることが必需なのだと思う。
つまり、「歌おう」と思ったらそれだけで普段と違うモードに入れるようになること。
そしてそのためには、歌うときの身体・喉の使い方が、自転車の乗り方と同じくらい、自分の身に覚え込まれていなくてはならないのだ。
いつでも取り出せるほど、身体に刻み込まれたものとして。

それはきっとそんなに難しいことじゃない。
結局のところは反復と記憶だ。そしてその過程で、邪魔になる動き……余計な筋肉の動きや喋りの延長にあるクセを、そぎ落としていくこと。それに尽きる。

歌は才能だって、冗談じゃない。もともと歌える人だけが歌えるなんて嘘っぱちだ。
そんなこといったらアメリカ人は全員素質に満ち溢れていて、日本人は才能のかけらもない凡百の衆だ、ということにでもなる(あぶない極論だけど)。
声の出し方は習慣にともなう記憶にしばられまくっているものだけど、その記憶を才能と読み替える馬鹿なんかは相手にしなくていいと思う。