何度も挫折してきたけれど、やっぱり早起きしようと思う。

 

 椅子を買おうとして驚いた。もちろん上を見たらきりはないのだが、問題は自分がいつまでもそのことで悩みぬいたあげく、部屋のインテリアセンスを自分の中で全否定し始めたときだ。別にどうだっていいではないか。寝転べるほど大きなソファーがあり、いつまでも作業をしていられるようなデスクが整えば、何に文句があるというのだ。本の収納スペースだって、今のところべつにそこまで困っているわけじゃない。床さえきれいにしておけば、最悪積読を貫いたって悪いことはないわけだ。

 にもかかわらず、深夜になればなるほど思考は狭まり、神経は研ぎ澄まされ、終わりのない煩悶にまきこまれていく。朝起きて一発目はなんにもそんなことはないのに。妙なもんだ。多分それもこれも仕事がいけないんだろう。というより、仕事に圧迫されて自分が何一つとして自分の人生を生きられていない、というその感覚が襲いかかってくるたびに、つらくてつらくてたまらなくなるのだろう。それを取り戻すためになんとかもがこうとするけれど、結局何から手をつけていいやらわからなくなって混乱するのだ。ろくでもない椅子を買って損をしたら、なんて! そりゃ今、朝の元気な時間帯であったって「しょうもない買い物をしてもしょうがない」くらいには思うけれど、でもそれだって限界があるじゃないか。結局のところ自分の体に合う椅子を実際に座って探す、その手間を土日にとればいいだけの話で、逆にそれまでは無理やり物事を決めるわけにはいかない。そしたらその話はひとまずこれで終わり、というふうにしたっておかしくないではないか?

 なのに思い悩むのは、まあ、椅子選びそのものの複雑さというよりは、それよりもっと奥のところにある自分自身の問題のせいなのだろう。

 「散々割を食ってきたけれど、ようやく自分の時間だ! さあ有意義に、損失なく、生産的に過ごすぞ!……」とまあ、こんなふうに張り切って家に帰ってきてみたら、いったい何をしていいかわからない。寝る時間は迫っている、逆算したら2時間も残っていないじゃないか! 文章を書こうにも、アイデアなんてなしのつぶて。かといってもう本なんか読みたくない、人の話を聞くには疲れた。でもそしたらぐだぐだするの? 今日も一日何ひとつとして物事は進まなかったじゃない? うるさいな! やるよ、やればいいんだろ? でも今は足が一歩前に出ないんだよ、その前の準備運動にちょっと気晴らしくらいしたっていいじゃないか!……

 要は疲れてるんだと思う。

 そりゃそうなんだろう。体力はきっちり奪われているし、気力もばっちり使い尽くしている。前向きに何かを考えるには、頭はぐったりしすぎているのだ。

 昨日話しそびれたけれど、僕は「元気なときにしか書けないようなものを書いて、いったい何の価値があるのだろう? ぎりぎりまで追い詰められて疲れ果てたとき、それでも救いになるようなものを僕は書きたいのだ」と思ったのだった。だから疲れているときにもじたばたすることはある。あっていいと思う。だけど……だけど、なんだろう。絶望に対しては早寝早起きってそれなりに有効な気がするんだ。嫌なことがあったら思い悩まず寝ちまえ、と。朝っぱらに書いたものなんてポジティブすぎて面白くないだろうか?

 いずれにせよ、だ。

 仕事が終わったらもうさっさと帰ってきて寝てしまおうと思う。シャワー浴びて、歯を磨いて、寝る。以上。飲みに出かけてても同じ。夜は、家に帰ってきたら、寝る。翌日目覚ましもぎりぎりにセットして、もう何時間寝てもいいやっていう気持ちで寝てしまう。で、勝手に体が朝起きたら、どんどん動きはじめるとしよう。物事はちょっとずつしか進まないんだ、それは夜更かしでも早起きでも同じことだ。たまに夜更かしして絶望を思い出しても、基本的には絶望が目に入らない時間で何かを動かしていくスタンスのほうが、自分にとっても悪いサイクルに落ちなくていいだろう。一部の人間にとって、絶望とか死っていうのは、ただ気力を削いで奪っていくものにしかならないから。今を一生懸命生きる理由にはならないから。そういうふうになるのは、一生懸命生きていると実感できている人だけだ。