芸術家の努力には、生活の中で破天荒なポーズを取り続けることも含まれるのだろうか

友達が「芸術家は自分の作品にたいして金を取るべきか」という話をしていた。
俺は正直かたわらで聞いていて「どっちでもいいやんかそんなん」と思っていた、というかそういう話自体にあんまり興味が持てなくて、なんでなんだろうなと不思議に思った。
ひとつには俺が仕事をしていてそれで飯を普通に食えているから、一応真剣なつもりでやっているとはいえ趣味なのだかなんなのだか名前のつけがたい物書きやらなんやらの営みにたいして対価が支払われているかどうかが、差し迫った問題になりようがないということがあるのだろう。
そう考えると自分は芸術家(少なくとも職業としての)としての自覚なんてまったく持っていないし、この調子でいくとそんなものはこの先持ちえないような気がする。
なんとなく芸術で一本立ち、というのがナンセンスな気がしてしまっているのだ。
ふつうに生活できていて、特に思想があるわけでもなく、なんというか善良で綺麗に生きていたいよね、と思うばかりの今日この頃で、自分の果てしなく堅い自我でこの秩序なき世の中を一点突破、なんて考えもしなくなっている(もともとそんなこと考えたことがあったかさえ怪しいが)から、そこで命がけの切った張ったをやることはないように思っている。
死ぬ気で文学を、芸術を、というふうにはちょっとなれそうにない。
生きていることが前提にあって、その前提のもとで何かを作っている。
音楽や文学に命を救われる、という経験は、文字通りであれ比喩的であれ今までなかったと思うし、やるせなさを埋めたり感傷にひたるうえで芸術の力を借りているな、と思うことはままあるけど、結局生活あっての芸術っていうのが自分の中の優先順位だ。
そこがひっくり返ってるってよっぽどぶっ飛んでるんだろう。そういう人たちが金やら生活やらのことを考えるのかどうか、僕にはよくわからない。

あと、今日ひっかかったのが「芸術家もパトロンがいればいいけどね」みたいなことを言っていた人がいたことで、まあ生活の援助がされていれば好き勝手やれるのにね、みたいな発想ってのはごく自然だとは思うのだけど、でもパトロンと芸術家の関係なんて絶対もっと抜き差しならないものだったんじゃなかろうか。
少なくとも芸術なんてものを相手にしている人間が、まともに生活を享受できているとは思えない。よっぽど危うい均衡の上に立って壊れた豪奢な生活を送っているか、痛い目を見ながら這いつくばるように生きているかのどっちかのように思えてならない。
もちろんそんな話は歴史をきちんと紐解いてみないとわからないのだけど。
だけど「昔はああいう仕組みがあったからよかった」みたいな言われ方ってほとんど普遍的に当てにならないではないか。今の芸術家が身を削って作品を世に問い続けているのだとしたら、昔のほうがよかったなんてことは絶対にありえない気がする。

何が言いたいのかよくわからない感じだけどこのへんで。