たぶん歌について気づいたこと

もう寝なきゃいけないから手短に。

 

ひとつには、声を出すときには必ず声を出す前には「準備」ができていなくてはならない。準備とはつまり、それさえ整っていればあとはただひとつポンッとスイッチを押す(=筋肉に必要なぶんだけの過不足ない力を入れるとか、過不足な声帯に通してやるとか)だけで済むということだ。実際に声が出る段階では手心を加えてはならない、といってもいい。じゃあしゃくりとかこぶしはどうなんだ、ということにもなるかもしれないけれど、それにしたって、しゃくりやこぶしをやったあとの動きまで含めて「どう筋肉なり息の量を使っていこう」というイメージがきちんとできあがった状態でやらなくってはサマにならない。いずれにせよ言えることは、声を出す段階で手心を加えようとすると必ず余計な要素が加わってヘタに聞こえるらしい、ということだ。

 

それからもうひとつ。ひとつ目と共通する部分が大いにあると思うのだが、リズムというのは音楽それ自体にともなう波であって、その波と歌をなるべく一致させないと、必ず平坦になったりくどくなったりするということだ。伴奏でも頭の中にある音楽のイメージ(アカペラだとどちらかというとイメージだろう)でも楽譜でもなんでもいいのだけれど、その音楽が表現するべきリズムというのが先にあって、歌はそれにすりあわせなくてはいけない。

4つ打ちのリズムなんかでも、どこに強拍を置くか、そして強拍と弱拍の差はどれくらいにするか、というのでずいぶん印象は変わってくると思うのだけれど、「4つ打ちだ!」ということだけを頭に入れて、気張ってマーチの拍感でアイネクライネ(米津玄師)のAメロとか歌うと絶対まちがった感じになる。アイネクライネのAメロに求められる4つ打ちの感じというのはもっと穏やかだし1拍が微かに強い。目指す音楽のほうのリズムに耳を傾けてそこに同一化していかないと、歌は絶対にくどくなったり平坦になったりして浮いてしまう。

手心を加えない、自分の側のイメージでおまけをつけない、あくまで音楽の側に滑り込むようにして、音楽そのものと一緒に歌を進行させるような具合で歌う。たぶんそれが大事なんだと思う。

 

ふたつに共通するのは、自分の手心を加えないほうがいい、ということだ。それは自分を表現してはいけない、というのとは違う。表現そのものは音楽の側にある。自分は音楽の力を借りるだけだ。文章にしたってそうだ。自分の書きたいものというのは自分の中にあっていいのだけれど、それを表現するときには僕たちはあくまで文章の力を借りているのだ。文章や音楽の形になることによって、僕たちの言いたいことは初めてコミュニケーションの場に乗せられるだけのものになる。

 

(それはどうしてだろう? というか本当にそうなのだろうか? たしかに流通しやすい形にパッケージングするには恰好かもしれないけれど、本当にその結果生まれたことと僕が言いたいこと叫びたいことはイコールなんだろうか?という疑問は生まれてくる。そしておそらく、答えはNO。死にたい気分のときに死にたいってことを前面に押し出した物語とか音楽ができるとは限らない、というかだいたい失敗する。でもそれはどうしてだろう? 客観性を持たせるというのがそんなに大事なことなのか。そもそも僕たちの「言いたいこと」ってなんなのか。自分一人で抱えている「言いたいこと」は案外他人の前に立ってみるといろんなふうに反応していろんな印象を僕に見せる。思ったよりばかばかしいなとか思ったより俺の考えてることって深刻かもしれないとか。自分一人だけが所有する「言いたいこと」ってありうるんだろうか。何かを言いたい、伝えたいと願うかぎり、それは自分一人の所有物であることからフリーになる余地が生まれてしまうじゃないか。そうすると生の形のままじゃ出せない、というか、別にゆがめられるわけじゃなくて、世界のど真ん中にさらしたときの化学反応をひっくるめた僕の「言いたいこと」こそが表現においては大事なのであって、それはつまり生/加工した嘘っぱち、という二分法とは別の論理、つまり、抱え込んだままの生のもの/世界に晒された生のもの、という二分法で考えなくてはいけないのではないか。誰かに言おうとした瞬間純粋さが損なわれる、というのは、たしかにやるせなくてどうしようもないことなのかもしれないけれど、それは悪というよりは、残酷な摂理みたいなものなのかもしれない)

 

というのが今日、日本酒3杯焼酎お湯割り1杯を飲みくだした頭で考えたこと。まじで今月金がない。