いい小説の要素
いい小説の条件、などと言うと言い過ぎになるだろうから、せめて自分が好きな小説に通底する要因を考えながら、自分が意識しなくてはいけない点を考えてみたいと思う。
好きな小説は、やはりストーリーがきちんとしている。
ストーリー、構成というのがいいのか。
言えることは、筋書きをきちんと説明できる、ということだ。
「ノルウェイの森」も「TUGUMI」も「僕は勉強ができない」も「斜陽」も、筋書きがある程度説明できる。
ストーリーや構成というのは、それ自体が重要なわけではないと思う。
重要な点は、つまるところ虚構の世界をいかにリアリティを伴うものとして織り上げられるか、にある。
小説は、読み手によって経験されるようなものではなくてはいけない。
なるべく現実的でなくてはならない。
この現実、という言葉はやっかいで、「写実的であれ」というのとはまた少し違う。
つまり、読み手側の現実認識のあり方に寄り添うような形の虚構を作り出すことが大切なのであって、現実そのもの、のようなものを目指すべきだ、ということではない。
読み手側の現実認識、というものにどれだけ肉薄できるか。
筋書き、ドラマ性のようなものが大切になるのは、それが小説を書くうえでの型として重要だからというわけではなく、そういうものがはっきりしているもののほうが、読み手の感覚を揺さぶりやすいから、という事情によると思う。
つまり、筋書きやドラマ性は、結果的に生じればいいのであって、必ずしもそこからスタートする必要はないんじゃないか、ということだ。
プロットを書くべし、というのは、プロットを書かなければ小説を書くことができないからではない。
いい小説はある程度、結果的にプロットに起こせるようなものを要素として内包しているから、まずはその要素を形骸のレベルからでも取り入れてみましょう、というそういう話なのだと思う。
ところで、小説と詩の違いはどこにあるのか?
自分は文学論には全くもって疎いので、的外れなことをつらつらと書き並べるかもしれない。
直感的に思ったことを書く。
文句を言ってもらっても構わない。
小説と詩の違いは、出来事性の有無だと思う。
出来事性、というのはつまり、書かれていることに時間的な幅があり、ダイナミズムがあるかどうか、だ。
詩は一瞬を切り取るのに対して、小説はある程度幅のある時間において生じた出来事(といっても虚構なのだけど)について書いていく、ということがある。
だから、小説に必要なのは変化ではないのか、と思う。
文章全体の中に、変化があり、波があること。
現実の経験がすべて、変化を伴い、波を伴うのと同じように。
そして、いい小説は現実認識の象徴となるような出来事を書かなくてはいけない。
何について絶望して、何について希望を持っていて、何に閉塞感を抱いていて、何に活路を見出そうとしているのか。
潜在的なものであれ顕在的なものであれ、私たちの現実認識のあり方に即した出来事を仮構していく必要がある。
読書量が必要になるのは、自分がどういう現実認識をもっていて、どういう見方に違和感を覚えるのかを看取するためだと思う。
もちろん、読まなくても書く、という人も、同じことを読書ではないところを通じてやっているのだろうから、読むことは必須ではないのかもしれない。
ただ、書くことで仮構された現実をどう受け止め、それを鏡として何を思うか、を感じ取るほうが、では自分は何をどういう形で書くべきか、を考えていくうえでのヒントになりやすいのではないか、とは思う。
影響を受けた作家、というのが大切になるのはそういうことではないかな、と思う。
表現と、虚構された出来事の流れは、どちらも大切だろうけれど、別の要素として分けて考えてもいいような気がする。
少なくとも、どちらかが磨かれればもう片方も磨かれる、というような類のものではないように思う。
意識的に、足りないほうの要素について力をつけていくことを心がける必要はあるのではないかな、という気がしている。