「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」をめぐる対談で、村上春樹が若い頃の読書歴について話していた。
詳しいことは覚えていないけど、同世代における読書のパターンのようなものはあったようだということを話していた。
この作家から入って、次はこっちにいって、みたいな。
自分たちの世代にもそれはあるのかな。
自分の場合は、やっぱり村上春樹から入って、その周辺から手あたり次第掘り下げていこう、という感じはある。大してたくさんは読んでないけど。
でも、どういうところから影響受けて何考えてるのかな、ってことは気になるから、やっぱり読まずにはいられない。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」もそういう感じで読んだんだけど、どこか似ていないこともないなとはやはり思う。
似ているところを探しながら読んでしまうからなのかもしれないけど。
二つ並べたものがどんなものでも、全く似ていないということはないだろうしね。
こういう、誰か他人が読むかもしれないところで文章を書こうとすると、やっぱりどこかでひよってしまう。
ろくに知りもしないことについてあれこれ並べ立てたり、ひけらかしみたいなことをやったって仕方ない。
でも、ひけらかしじゃないレベルのところで話ができるようにならないと、結局のところ何も言えずじまいで終わってしまうから、もやもやともどかしいまま立ちすくむしかない。
「ライ麦畑でつかまえて」という昔の訳のほうは、高校生の時に読んだことがあった。
課題図書で読まされたんだけど、そのときは全然残らなかった。
けど、今読み返してようやく、ああそういう話なんだなあと理解ができた気がする。
それは別に、村上春樹の訳のほうがいいから、というだけではなく(もちろん村上訳のほうが現代的で読みやすいのかもしれないけど)。
ホールデンみたいなやつって結構いるんですよね。
世の中全部クソで、本当にいいものはどっかに隠れちゃってるんだ、みたいな。
自分もそういうことを思いやすいタイプだからよく分かる。
あらゆる会話がおべんちゃらと駆け引きにしか見えなかったりね。
着飾ったりすることに必死なのが、ばかばかしく思えたり。
分かる。分かるんですよね。
分かるんだけど、いつも分かるかっていうと必ずしもそんなことはない。
クソみたいだな、って言われる側の世界でうまくやれている限り、ホールデンの叫びって響かないんですよね。
逆に、そこから追い落とされてもう一回登っていく気概もわかない、っていったときにはすごく分かる気がしてくる。
分かったところで、悲しいのはその先に何も解決がないことですよね。
世の中はクソなんだけど、でも確固として立っているから、いくら何を言っても通らない。
そうすると精神的にどうだとか神経症的とかって、サナトリウムにぶちこまれるわけですよね。
強者と弱者って二分して、これは弱者の「わかる」が詰めこまれた話です、と言えば20%くらいは合ってるんじゃなかろうか。
強者と弱者っていう線引きって、割と個人の外からされちゃうものだから、そういう意味でここではうまくはまりきらない。
弱者っていうより、自分がどうしようもなく腑抜けてて、現実に立ち向かう気力が出ないぜ、みたいなヤツにはまるっていうか。
弱者って呼ばれる人も、自分じゃそうは思っていなかったりもするじゃないですか。
お年寄りが「年寄扱いするな!」って言うみたいにね。
それでも、外からなされる線引きに基づけば、お年寄りは「弱者」ってことになってしまったり、というのはあるわけですよね。
制度的な、というか。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、でっかい社会を目の前にして、じゃあどうしていこうか、って葛藤する話だと思う。
社会の中にいる人には、あんまり分からないのかもしれません。
だから、受験競争のしくみでは栄華を誇っていた(といえるほどの優秀さもなかったくせにね)高校生の自分にも、あんまり分からなかったのかもしれません。
話がとっちらかった。
読書感想文みたいになってしまいましたね。
あと、最後に。
ダメな文は、余計な情報を詰め込みすぎた文である。
最近の実感。