教えることについて思うこと

バイト先の20代後半くらいのお姉さんが、自分の後輩に対する指導方針について滔々と語ってくれたんだけれど、それがあんまり聞いていてうなずけないものだったからそれについて少し書く。

 

 

つい三日くらい前に、バイト先に新人の子が入ってきて、先日その子の指導をしながら業務にあたることがあった。

まだきちんと話したわけじゃないから、その子がどういう人物なのかはまだ分からないけど、どうやらそのお姉さんは早々に「この子はやばい」と判断したらしい。

そういう直感的な判断は多かれ少なかれ当たるだろうから、もちろん言下にそれを否定することは出来ないんですが。

 

 

「分からないことがあって、その結果困ることがあったら本人のためにならない。

だから、多少厳しくてもきちんと叱るところは叱り、褒めるところは褒める。

それを受け入れられない子だったら、私はもう突き放すしかないと思う。」

 

 

彼女はそう言いました。

いや全くその通り、と思う部分もある。

でもやっぱり簡単にはうなずけない。

 

 

そもそも新しく入ってきて一日や二日しか経っていない後輩に、「突き放すかどうか」という判断をさっさと下すのが違うと思うんですけどね。

もちろん、さっきも言ったように、直感って往々にして当たるから、そう考える妥当性はあったのかもしれない。

ただ、ねえ。

 

 

教える側は、自分が欠陥だらけかもしれないってことを常に考えておく必要があると思う。

知らないことがあるかもしれないのは当然だし、それに加えて、自分が教えるに値する人格者だなんて思ってもいけない。

でも、油断してるとそういう勘違いはどうしても生まれるから、注意深くあるべきだと思う。

上下関係ができていいとしたら、それは勝手に向こうが尊敬してきた場合だけに限るんじゃないのか。

 

 

だいたい、こちらが「こういうつもりで言った」なんて意図を、相手がやすやすと汲みとってくれるわけがない。

あなたのためを思って、という言葉はいざこざのクライマックスくらいでようやく飛び出すことが多いけれど、それは逆に言えば、いざこざの途上でディスコミュニケーションが生じまくっていたことの表れではないか。

 

 

自分の欠陥と、それが生みうる誤解には常に気を配っておく必要があると思う。

全部に気を配るなんて不可能なのだろうけど。

でも、それをしないうちから「あいつはだめっぽい」と言って突き放すようなことはしてはいけないと思う。

 

 

まあ、根源のところで馬が合わないことを直感した、みたいなことなら仕方がないとは思いますが。

 

 

逆によくないんじゃないか、と思うのは、生理的なところとか、前言語的なところの感覚においてなされた判断に、変に理屈を飾りつけて通りのいい判断めかすような真似です。

つまり、「あいつ嫌い」なら「あいつ嫌い」でいいじゃないか、と思うんです。

その感覚を無理やり、「あいつはこういうところがあるからよくないと思う」というふうに、さも客観的事実を語り出すかのように表明するのは、むしろタチが悪い気がします。

 

 

そういう言葉の使い方で、うまく回っている部分もあるのかもしれない。

「嫌い」って言ったら「嫌い」で終わっちゃう、線引きがそこでなされて終わってしまう。

だから、せめて解決のしようがあるような言い回しで歪めておく、みたいな。

浅く広い付き合いも多い昨今では、そういう方策も重要なのかもしれない。

でも、やっぱりそれが話をややこしくする場面って、多くある気がするんですよね。

 

 

じゃあ、嫌いな人との共存はどうするの?みたいな話は、ちょっと大風呂敷を広げすぎることになりそうなので、ここではしないでおきます。