言葉の限界を意識すること

含蓄のあることを言えるような年齢にはまだまだ程遠いし、無理をして何か言っても青臭いし胡散臭いばっかりになる。

だから今は、とにかく無心に自分を開いて、入ってくる限りのものを吸収するしかない。

その先でどんなものが得られるかはまだ分からなくていい。

 

 

少し物書きについて思うところがあったので覚え書き。

 

 

ストーリーはいくつかの出来事に分解することが可能だと思う。

起承転結っていう形でもありうるし、そんなに定型的な筋のものでなくてもいい。

いずれにせよ、「ここからここまでの時間の幅のうちで、これこれのことがあった」という出来事が要素としてあって、それがいくつかの単位になって、ストーリーを構成する。

 

 

そして、自分の今の主観的な感覚だと、あるまとまった出来事を描き切るのに必要な原稿用紙は、だいたい20枚から40枚くらいになる。

 

 

これは、時間の切り取り方の癖とか、出来事を描くうえで拾うポイントの癖の結果だという気はしている。

だから、この数字をなんらかの目安にすることが、必ずしも正しいとは言えない。

ただ、ある程度定められた分量のものを書かなくてはいけない、といったときには、こういう数字を意識しておくとやりやすいのかな、とは思う。

 

 

言葉が乗せられる意味の量って、多分決まっているんだろうな、という感覚がある。

もう少し分かりやすく言いたいから、シニフィアンシニフィエ、なんて言葉を使ってしまいます。

あるシニフィアンが担えるシニフィエの重さには、平均これくらい、という限界が存在しているように思う。

これですね。

物を書いていると、自分が言葉で言い表せている意味の量ってせいぜいこれくらいかな、というのがなんとなくわかる。

それをどうしていったらいいのかまではよく分からない。

より深く、なのか、より的確に、なのか、より効率的に、なのか。

意味というものをどういうふうに追い求めていったらいいのか、というところまでは分からない。

そもそもそういう風に考えるべきなのかさえ分からない。

 

 

分からないことだらけです。

 

 

小説という形式は、やっぱり人が空間と時間っていう形式の中で受け取る経験を、文章によって再現するものだと思う。

誰かが「小説とは虚の経験だ」って言ってた、ってある人に教わったから、そうなんだろう。

人間の経験にも限界がある。制約がある。全部を知ることはない。

それと同じで、小説も常に限界を持っている。

言葉には限界があって、それが含むことのできる意味(書き手がのせる意味=読み手が受け取る意味)にも限界があって、その限界には決して逆らえない。

その中で書いていくしかない。

 

 

そこは自覚的でいなきゃいけない気がしていますね。

 

 

一生勉強して、一生書いていけたらいいな。ちゃんといいものを書きたい。

それと幸せでありたい。

切なる願い。