受けた批判について考える

批評されることの恐ろしさをまざまざと感じている。

心が抉られる。

自分の作品を否定されるという経験が、これほど痛みを伴うとは。

予想以上だった。胸が痛む。息苦しくなる。

 

 

否定と批判は違うか。

ある程度は違うけれど、ある程度は違わないのだ。

どちらも痛みは伴うのだ。

 

 

何も言えなくなりそうなほどぎりぎりとした痛みに身がよじれる。

これは何かにつながる痛みだろうか。

自分でも分からなくなりそうな、目がくらみそうな痛みだ。

 

 

しかしこれを克服せずして前進はないはずだ。

自分なりにこれをどう血肉にしていくか。批判に対する解釈だ。

 

 

どのような批判がなされたか、についてポイントをいくつか考えておきたい。

 

 

一つは、内容が現実に即していないという批判だ。たとえば、舞台設定を現実的なものにするのであれば、その現実性はきちんと詰められなくてはいけない、我々が今生きている現実と整合的なものでなくてはいけないということだ。どこかの寒村を舞台に物語を展開するのであれば、寒村のリアルは描かれなくてはいけない。そこでの生活水準や、社会的な機構、人と人の間の関係性のありかたについて現実性を追求する必要があるということだ。

 

二つ目は、内容を表現するものとしての言葉の問題だ。文章はなめらかに読み進められ、経験されなくてはいけない。小説の文章は、読み手の身体的な経験を引き起こさなくてはいけない。要するに「いちいちつっかえるようではいけない」ということなのだが、では「つっかえるとはどういうことか」を考えなくてはいけない。

 

三つ目は、これは倫理とか作者自身の内面にかかわる問題だとも思うのだが、作中人物の思想や心情の問題だ。ゆるく穏やかであっても、激しくとげのあるものでも、作中人物の思想や心情には作者のそれが反映されていないだろうか。作者の意識がどういう形であれ投影されない小説というものはありうるだろうか。ここでは急場をしのぎたい気持ちもあって、先人たちの意見を積極的に参照することはなしに考えたい。そしてあらかじめ提示しておく結論としては「作者の意識の投影されない小説はありえない」ということだ。その結論を踏まえたうえで考えたい。

 

 

一つ目の批判について。

 

「何をもって現実となすか、という点が非常に難しい」というのはある。しかし、ここでは客観的事実に還元しきれるのか怪しい、いわゆる現実、のようなものについて考えるのではない。少なくとも現時点において客観性を疑われる余地をあまりもたない物事について考える。

たとえば、歴史的な変遷をどう経てきたかはさておくとしても、現在「東京都」として周囲と画された地域は存在している。東京都、という区切りは存在している。今問題にしたいのはそういう物事だ。

小説のなかで、こういう意味での現実をどこまで隙なく取り入れるべきか。全てを盛りこむのは不可能だ。「○丁目の○番地○号にはXマートY店があり……」といった記述を、現実に即しているからといって全てについて行うのは無意味だといっていい。

ではどこまで詰めるのが理想的なのだろうか。確信をもって言えるのは、内容にとって何らかの意味を持つ記述だけが登場していいということだ。「無駄は極力排除せよ」というのとはまた違う。無意味に見えるものが何らかの効果を醸し出す場合もあるはずだからだ。そうした、明らかに意味を担っているものであれ、無意味を装ったものであれ、内容に何らかの必要な効果を付与するものについての記述だけが、あればいいということになる。

 

ここで一つの疑問が湧く。現実に即している、ということと、内容に必要な効果をあたえる、ということの間には、結びつきが果たしてあるか?たとえば、ある土地の人口構成や産業構成、地勢といったものについての理解は、内容に効果を与えるうえでどれだけ必要であろうか。

答えは二通りある。一つは、作品の内容がどの程度現実に即したものであるかによる、というもの。もう一つは、読者のなめらかな読みを阻害しない程度には、というものである。

 

まず一つ目だが、たとえば学校教育の実態に迫り、教育の枠組みでとらえた人間を描きたいというのであれば、学校教育の現在的な状況についての理解は不可欠になるはずだ。学校の機構について理解したうえでなくては学校における人間関係を浮き彫りには出来ない。まず現実ありき、という姿勢において構築される作品には、その現実についての知識が求められる。宗教との関連において人間を描き出す、というのであれば、当然宗教というものへの豊富な理解は必要だ。

しかしエゴセントリックな作品になると話は変わってくる。まずありきとされるのは、自己の外の現実ではない。それぞれが見知っている現実にのみ取り巻かれた自己のほうだ。もう一つの答えと関わるのは、このエゴセントリックの色彩の強い作品だ。

自己に端を発する作品は、自己の心情や思想を発露させて表現する性格をより強く持っている。より強く、と留保をつけたのは、先に述べたような一種の報告書的な作品においても、自己の思想の発露・展開はなされているだろうという予想からだ。それはさておき、エゴセントリックな作品は、かといってエゴセントリックで終始しては良いものにならない。というのも、これは自身の小説観のようなものから言うことだが、良い小説は必ず個人とその外側の何かの間における対立・葛藤をふくんでいなくてはいけないはずだからだ。そして自己あるいは個人が対立・葛藤する向こう側にあるのは、自己や個人を取り巻くものである。それを小説でどう表現するかといえば、より精度の高い現実を描くことによってか、緻密に構成された非現実の世界を描くかのどちらかだ。

作者は葛藤する両者についてなるべく正確に理解している必要がある。ここでいう正確さは、物についての詳細な知識の豊富さとは少し異なる。たとえば、個人を抑圧する何か圧倒的なものを描くうえで、大切になってくるのはそれがどう個人を抑圧するかだ。無論、その抑圧の過程は多くの知識によって知られなくてはならないかもしれないが、それは絶対というわけではないだろう。しかし、とすれば作者は少なくともそういった意味での理解を求められるはずである。描かれた二者の関係が稚拙なものにとどまるのは、理解の浅さゆえだということもあるはずだ。

浅い作品だとみなされるのは、エゴセントリックな作品の場合、読み手にとってエゴのほうばかりが過大に映るときだと思われる。緊密な葛藤や対立が危うい均衡のもとで保たれていなくてはならないはずが、片方だけがはりぼてのようにお粗末であれば、それらは成立しなくなる。

精緻な調査や資料の読みこみが必要かといえば、必ずしもそうではない。むしろ、生々しい経験や夢想から得られた素材のもとで、思うさまエゴセントリックにやればいい。しかし、現実を調理するときに穴があってはならない。その穴を埋めるときに、補助的に調査は必要になる。そして調査や資料の読みこみは、創作とは関係のない文脈で行われるにこしたことはないと思う。創作の下準備という意識でやりすぎると、結局自己の味方になるような材料ばかりが残るからである。

 

 

二つ目について。

 

いい文章は何か、と言われてぴたりと答えられる人はまずいないはずだ。「読みやすい文章」「分かりやすい文章」、という答えは的を射ているように思えるが、表現を突き詰めるときにその答えをもって挑みかかると迷路に入りこむ。

どのような文章が読みやすく分かりやすいかは、人によって千差万別だからだ。この千差万別が生まれる理由もそのうち追究したいが、今はひとまずやめておく。

しかし、ある人にとって細かすぎると思える文章が、別の人には説明十分と感じられたり、ある人はうまく無駄が省かれていると感じる文章が、別の人にはそっけなく淡々としているという印象しか与えなかったりする。読書の量や質の違いによる差などもあるかもしれない。しかし、理由はどうあれ文章の受け取られ方は千差万別である。

では、いい文章とはどのようなものか、という問いへの答えはどのようなものになるのか。ここでは答えられない。しかし、問いをさらに細かくすることはできる。

一、いい文章に共通する性質、というものは抽出できるか。二、読み手の違いによっていい/悪いと感じられる性質とはどのようなものであるか。

 

いくつかの断片的な予感はある。たとえば、文章は一つの完結した世界であって、その世界の秩序を守り切れているのがいい文章だろう、というのが一つ。それと、リズム感やスピード感がいい文章であることが重要だ、というのが一つ。逆に言葉遣いなどは、読み手の違いで受け取られ方のいくらでも変わる、普遍的とは言えない要素だ。

普遍的でない要素は、当然あるのだ。でなければ、フォーマットの決まった挨拶文などというものの存在意義が説明できない。良くも悪くもない、正しいだけの中立的な文章がなぜ必要か。それは、文章の良し悪しの感じ方がどうしても個人によって変わるからだ。その理由の説明はまたいずれ後々に回す、というのは先程も言った。

そしてもう一つ重要な予感として、やはり優れた読み手であることが作者には求められるだろうということがある。書いているときと後になって読むとき、この二つのそれぞれでいったいどのようなことが起こっているのか、なぜ一発目に書いたものがベスト、というふうにならないか、ということは当然知りたい点ではある。けれど、問題をそこまで今は拡げない。重要なのは、書かれてそのままのものを美しいものに直していけるのは、一発目の書き手とは違う意識で文章に向かっている自分だけだろうということだ。

 

 

三つ目について。

 

倫理という概念についてまだよく知らないので、あまりその言葉を使いたくない。

ただ思うのは、「正しい考えを小説で表現する」などというのは欺瞞だろうということだ。私たちの周りは、正しくないことで満ちあふれている。正しいとされているはずのことが踏みにじられている場合さえある。それをいいとか悪いとかと言って評価することに意味はあるだろうか。私は、意味はなくはないだろうけれど、あるとしても薄いと考えている。現状の良し悪しを評価して、物事がよくなるなら結構だ。しかしそんなことは大抵起こらない。マナーが悪いと憤慨したところで、世の中の人々のマナー意識が向上するわけではない。

私は善良な一市民を気取るつもりなど全くない。むしろ欠陥だらけの人間だと思う。しかし、良く幸福に生きることが出来るならそれを望まないはずはない。私は身勝手かもしれないし、他人に到底理解されないようなことを考えているかもしれない。それは自分でさえも分からない。

ところで、小説は必ず現実を切り取るのだから、そのときに自己の意識が入りこまないわけはないと思う。そのとき、自己の意識というものはどう扱われるべきなのだろう。自らの心情・思想・現実認識が避けがたく反映される、そのことをどう考えるべきなのだろう。もちろん、自己が表現にどのように反映されていくのかについては、先人が考え残すところがあるだろうから、それらに積極的に当たる必要があるだろう。しかし、いずれにせよ自己が反映されるのだとすれば、そのことを私はどう考え受け止めたらいいのか。

一つにはこう考える。結局、批判や非難は避けられるはずがない。共感や称賛を受けることもあるかもしれない。それらは避けがたい。私の自己と、それに対する反応は、不即不離に結びついて存在しているのだということだ。とすれば、それは受け止めるしかない。相手にするのもばかばかしいというくらいくだらないものもあるかもしれない。しかし、私への反応は私にいつまでも隣り合う。それなら、それらのうち役立てられそうなものを、私自身の洞察を深める契機にしていくほかないのではないか。

登場人物について「こいつの考え方はおかしい」という指摘があったとしたら、それは仕方のないことだ。それはどうしても作者自身から発するものだからだ。書く限りそれはつきまとう。

もっとも、表現された登場人物の思想や心情がおかしい、という指摘は、ある程度文章の問題に帰するかもしれないから、そこは不断に気を配る必要はある。あるいは、作者が上っ面の感情しか描かずにすまそうとしている場合もありうる。そうした、上手い下手の問題として考えられる側面については、またいずれ別のところで考えたい。

 

 

かなり長くなったが、いずれも自分にとって突き詰めて考えるべき問題だ。

この先何度となく考えることになるだろう。

稚拙であっても、現在の自分なりに考えることを繰り返すしかない。