リーガル・ハイ
たまにはタイムリーなネタでも扱ってみようかと思った。
というか、自分なりに感じたことが結構ボリューミーで、ちょっと書いておかずにはおれないので書く。
はっきり言って、「リーガル・ハイ」は2期になってずいぶんつまらなくなったと思っていた。
それは、おそらく一つには羽生(岡田将生)の白けるほどの「みんなが幸せになる道を探す」思想にうんざりしそうになることもあったとは思う。
しかしやっぱり一番大きいのは「古美門(堺雅人)が毎回問題の核心を突く形で勝つ」という、1期において確立していたセオリーが、2期になってしばしば覆るようになってしまったがためだと思う。
1期は全体として毎回のストーリーがかなり分かりやすかった。
一見すると正義のように見える解決策をしりぞけ、核心を突くやり方で独自に正義をなしていく古美門の巧妙なやり口(もっとも、毎回「正義をなそう」という考えで彼が動いているわけではないのだが)が、もつれた問題があざやかに解決する。
図式としてはだいたいこんなところだ。
要するに、「リーガル・ハイ」をある意味で一つの「ダークヒーローもの」として観ていたのである。
「正義と言われているものが本当に正義とは限らない」ということを、アクの強い主人公が暴き立てていく。
そこに視聴者は快感を得ればいい。
そういうものとして観ていたわけである。
しかし、2期にはその図式がかなりの頻度で崩れている。
たとえば、羽生の「原告・被告双方が幸せになる道を」という思想は、ある程度実現されたりされなかったりする。
あるいは、古美門があくまで純粋に利益に目がくらんで「火のないところに煙を立たせる」ようにして市民を訴訟にけしかける、かなりあくどいことをやったりもする。
この変化にかなりの程度とまどいを抱いている視聴者がいるようだというのは、ネットの意見を見ているとなんとなくわかる。
もちろん私もその一人で、「ああ、なんか2期でしらけたな」ということを感じずにはおれなかった。
ただ、である。
冷静に考えてみると、この2期での変化は、ある種のフィクションにおいてはむしろ必要なものであるはずなのだ。
「リーガル・ハイ」のねらい、というところまで読み取ろうとしてしまうのは、いかにも国語の授業的でよくないのかもしれないが、しかしあえてそれを一言で表現するとすれば、「既存の正義への根本的な問い直し」であるとも言える。
本当に、一般的に正しいとされていることは正しいのか。
私たちが常日頃考えていることが、このドラマでも問い直されているわけである。
第1期の図式というのは、言ってみれば正義に対する「反ー正義」が、既存の正義の代わりに位置を占めるものである。
古美門の悪辣な功利主義が、かえって「本当の正義」を生んでいる、という形だ。
しかし、それは、パースペクティブこそ変われども、一つの価値観を優越させようとする点では今までと全く変わっていないことを意味しもする。
2期で私たちが歯がゆさを感じるのは、この古美門の「反ー正義」すら、作中で疑われ、揺るがされているからである。
誰もがある程度正しいし、ある程度間違っている、というものの見方が、はっきりと前面に表れはじめたからである。
もちろん、1期でもそれをにおわせる場面は多々あった。
しかし、2期になってそれはずいぶんはっきりした形で表れるようになった。
そこに、私たちが「リーガルハイ」に違和感を感じる理由がある。
ただ、この「すべての立場を疑ってかかり、誰もがある程度正しいしある程度悪いことを認めていく」という立場は、おそらく現在もっとも現実主義的なものであると私は思う。
だから、あくまでリアリティを感じさせるフィクションを創作しようと思ったら、そういう立場をどこかでとっている必要があるように思えるのだ。
そう考えると、「リーガルハイ」の今の形は、フィクションとしてある意味で成功しているのだとも言えるように思う。
むろん、「私たちが求めているのは、あくまで図式の分かりやすいコメディーであって、そんなしちめんどくさいものじゃない」という反論もありそうだと思うし、私もむしろドラマくらい分かりやすいものを見させてくれよ、と感じる部分はある。
しかし、もし自分が小説を一本書くとしたら、確実に雰囲気は1期よりも2期に近いものになるはずで、フィクションとしてどちらが優れているということは、一概に言えないのではないかという気もするのである。
かなり適当な感想ではあるが、この辺で。