胃も痛いので手短にまとめていければと思う。

 

 

誰かに小説を読んでもらって、何らかの「批評」を受けたときに、それをどれだけ自分の中に取り入れる必要があるだろうか。

このことは、小説の書き手が目指さなくてはならないゴールに関係しているような気がするので、浅はかながら考えておきたい。

 

 

よく、「この作品は書き手のこういう意図がこもっているのに、それを読み取れないとはなんたる力のない読者だ」というようなことを言う人を見かける。

しかし、それを書き手が言うことは許されるだろうか。

 

 

私は許されないと思う。

 

 

書き手がなんにせよ普遍的に「いい」と思わせるものを書くことを目指すのであれば、誤読の責任は、誤読をされるような作品を書いた書き手自身にあると私は思うのである。

……少なくとも今のところ。

原理的に誤読はまぬかれないものである、というようなことも多分どこかで誰かが言っていそうだし、それを念頭に置いて物を書いている人も世の中にはきっとあるだろうから、その内実を知らないうちから「である!」とか偉そうに言うのは愚かしい。

と思うので、一応留保をつけた表現で主張しておく。

 

 

なんにせよ小説は何かの表現であって、読者は読むことを通じてそこから何かを受け取るものだと思う。

(ここで「受け取る」という表現をとったのは便宜上です……書かれた小説を読む、という行為とは何なのか、ということについてロクに考えていないので、もしかすると「受け取る」だと!と怒る人もいそうな気がする。ので留保をつけておく。この文章、留保ばっかりだな。)

 

 

表現する側の書き手は、なるべく読者に普遍的に伝わるようなものを目指さなくてはならないと思うのです。

「お前にわからないのはお前がバカだからだ」ではない。

「あなたにわからないのは私がヘタクソだからです」という態度であるべきだ。

私はそんなふうに思います。

 

 

もしかすると、全ての人に伝わる表現などというものはありえないかもしれない。

人によっては諸々の定義上不可能と主張するかもしれない。

それでも、「みんなに伝わる」を近似的に目指す態度がなくては、書き手としてはよくないんじゃないかと思うわけです。

当たり前かもしれないんだけどね。

 

 

肝に銘じておきたくなったので、メモ程度に。