悪は悪であることを自覚された瞬間に悪でなくなることを私は示そう

あなたは恋がしたいですか、と問われたときに私が頷くのをためらうのは、結局のところ私が恋をするに値するだけの土台を持たない人間だということを、恋をするたび結局なんどもなんども思い知らされてしまうからであって、たとえば恋の始まりになりそうな出来事が起こったときに私がちらとでも「ああ、これは恋の始まりかもしれない」と思ってしまえば、その途端に「これは恋になる前に摘み取ってしまうべきなのではないか、忘れてしまうべきなのではないか」となんどもなんども考えてしまう。
私は善良な人間ではないし、ましてや強い人間でもないし、守ろうと思った何かを守り抜けたこともないし、信じたことを貫き通せたこともない。ただ欲しがって、努力するフリなのか努力なのかどっちなんだと訊かれたら答えづらい中途半端さで何事にも取り組んでいて、決して洗練された美しさで生きているわけではない。もちろんそんなものを持ち合わせた人間など、周りの世界を見渡したとき、一人もいない。いない気がする。でも、そんなことさえ気にしないで、奔放に生きている人たちは、決してそのことを気に病んだりしていないように、僕には思えてならない。洗練されていない振る舞い、なんてことを気にする余地もなく、忸怩たる思いなど一つもなく、踊るように生きている人がいて、その人たちは本当の愛を知っている気がする。つまり、愛とは無知であり、愛とは無自覚であり、愛とは無鉄砲であるんじゃないかと。

嫌いなのは、あるいは相手にスイッチが入って僕にすがるポーズを見せてきた瞬間の、その媚態かもしれない。
嫌いなのは、あるいは相手の気持ちを手に取ったつもりでいるけれど、おそらくほとんど何もわかっていないはずの自分、そういう、自分がバカなのか賢しらなのかの判断もろくについていないで浮わついたり沈んだりする自分かもしれない。
テンションが上がると自分を罰してしまいたくなる。罰? いや、違うだろうか。わからない。でも、傲慢と卑屈の境目をふらついている自分は嫌いだ。そんな僕を見抜かずにふらついているように見える、そういう相手の像も嫌いだ。
僕は僕でありながら、あくまで他人のどちら様を抱きしめたい。騙くらかすとか怯えるとかはもうまっぴらだ。

舌が痛い。いつになったら全部スッキリしてくれるんだ。