読者を想定せよ!?

嘘つきました、就活の話はひとまず置いておきます。
多少僕自身が折り合いをつけて(というかそうせざるを得ない事情もあって)、職につかねばならんという意識を持ったからです。
生活の不安、将来の不安というのは、どこまでも僕を脅かします。
元々、義務感とか強迫的な必要性みたいなものに迫られたときは僕、結構動いてしまうので、たぶんそういうところをうまく刺激されてしまうと、いてもたってもいられなくなるのでしょう。


それで小説の話です。


インフルエンザもどきに寝込みながら、小説とは何か、みたいなことがわからなくなってうんうん考えていました。
おかげで知恵熱か、熱は上がりっぱなし、バイトは2回もシフトに穴を開けました。
店長はこういうとき寛容で、ちゃんと病院行きなさいよー!と、言ってくれるもののやはり申し訳ない。
明日はたぶん病院に行きます。


ごめんなさい、話がそれました。
読者を想定していないで書いているからでしょう、僕は今、聞き手、的なものを想像して筆を進めています。
愉快な講演会みたいな具合のものですかね、まあ書き言葉的な言葉の要素にも頼ってはいるのですが。
うまく言えてないな、ってところを削って修正したりね。
一休みしても、書き言葉にひとたびなってしまえば、ばれないし。あれ、ばれないのだろうか?本当に……。


小説とは何か、考えていました。
自分なりの、あんまり人の道具を使わない、考えを押し広げた。
それがいいかどうかはわかりません。
……僕はいつも、わかりません、だらけですね。
だから小説も、無難な評や「訴えるものがあんまりない」って評価ばかりをつけられるのかもしれない。


小説の批評サイトを利用しています。
作品をアップロードして、コメントをつけあう場です。
僕もかなり反応を気にして、ついつい見ちゃうサイトで、見過ぎもあれだよなあ、と思いつつ作品をアップロードした直後なんかははりついてしまいます。


で、人様の作品もたまに読むのですが、なんというかやはり、好きも苦手もある。
コメント欄もそうで、だいたい真っ二つの評価が並存している状況というのは珍しくない。


いい作品は普遍的にいいものではないのか、というか普遍的にいいものを目指して書くべきではないか、というようなことを考えつつ、僕は相反するコメント群を眺め、折り合いのつくようなものを書くことはありうるか考えた。


ひょっとしたら僕らが知らないだけで、そういうものはあるのかもしれないけと、少なくとも今の俺の力量じゃ無理だな。
と、思った。


ガチガチの純文学志向のやつはお涙ちょうだいのストーリーに唾をはきかけ、エンタメ志向はエログロや哲学めいた作品に「ちょっとよくわからない」と言葉を残して、作り笑いがちに立ち去る。
構図をわかりやすくするとこんな具合か。
実際にはもっと問題は一人一人の読み手のレベルにまで落とせるのかもしれない、とも思ったりするが、詳しいことは知らない。


ねえ、読み手を想定しろ、というのは、やはりあるのですか?
と思った。
一般論じゃなく、もっと深いところで、あるのかもしれない。
そして読む側としても、書かれたものには書かれたものが読まれたいように、まず読んでいこうとする立場が必要な気がする。


やっぱり枠があるんですよね、読むとき。
きっと誰でもそう。
その枠のありかたにしたって七十億人七十億色なんだ、と言ったら言いすぎになるのかもしれないけど、でもそういう枠をみんな持ってる。
「枯木灘」を読みきりました。
しんどかったです、普通に長さと複雑な話のゆえに。
でももっと、作品に合った枠をもって、スポッとその作品を受け入れる読者も世の中にはいて、下手するとそういう枠を持った読者の群れこそが「純文学的な素養ある人」なのかな、とか思ってしまったりもする。
もちろん、僕もいいと言われる作品のよさをちゃんと味わいたいし、というか、何が小説において良い/悪いのか、根拠をもったうえで判断できるようにゆくゆくはなりたいと思う。
よ。


明日には熱が下がってたらいいな。
眠りたい。
今日のうちに医者にいって、薬をもらうべきだった。


別に読者に媚びざるをえない、とかそういうことは言ってない。
でも、過渡期の段階として、読者を想定した物を書いてみる、というのはアリかな、と思った。
それが結局、対立とか個々人の距離の広がりを意識せずに生きてはいられない今の世の中に、回収され、とりこまれていってしまうものになるとしても。
そんなことを言う前に、人に言葉を宛ててみるってことを、まず試してみようよ、とそういうことになるのかな。


小難しいことはすべて、無根拠なかぎりは信じたりしたくないんだけど、その態度でどこまで通用するか。
僕はわからないことばかりです。