やる気の出ない就活について・序

久々に、語学のクラスの飲み会がありました。
クラス、と言っても2年生のときまで一緒だっただけの集まりで、それ以降は学校で定期的に顔を合わせる機会はなかったのですが、旧交をあたためるような感じで久々に集まったのです。
だいたいみんな4年生で、だいたいみんな進路が決まっていました。
はっきりとした進路の未だ決まっていない私は、その中で肩身のせまい思いをしたわけではなかったものの、やはりちょっと心配されたり好奇の目で見られたりはしました。

で、その帰り道に数人の元クラスメイトと話をしながら歩いたのですが、やはりその中にも私以外に進路の決まっていない人が一人いて、「就活決まらないあるある」的な話をして多少共感を深めておりました。

そのとき印象に残ったことが一つあって、それは「就活がうまくいかない人は、語る言葉を持たない」ということです。

当然私の周りには、内定をちゃんとどこかの会社からもらって、大学が卒業したあとの身の置き所がきちんと決まっている人もたくさんいるわけですが、そうした人たちと、昨日話した「未だ内定なし」の人あるいは私の間には、やはり違いはあると思います。
それは、就活について語る言葉にともなう真心の違いです。
ここでいう真心というのは、別に「真心のこもったおもてなし」みたいなウソくさい文言に登場するそれのことではないです。
もっと、態度や姿勢や根本的な志向性というか、真摯さみたいなものだと言っていい。
「就活を経てきちんと自分に合う会社にめぐりあいたい」という前傾的な思い、といえば伝わるでしょうか。

私たちは語る言葉を持たない。
それはなぜか。
世の就活生に与えられた言葉は、就活を真摯に戦う覚悟を決めた人間のためのものでしかないからです。

「本当にやりたいことに、就活を経ての就職のたどりつけるとは思えない。
私の思いはもっと別のところにある。
こんなにその思いはうずいて、喉元まで届いてあふれそうで。

なのに言葉にならない。」

何度も、言葉のレベルですらない内奥のところで、私はこう思ったものでした。
それもまた本当に真摯な思いで、それを否定したら私の生活は生きながら死んだようなものにしかならないという確信はありました。
そしてまた、飲み会の帰り道で語ったクラスメイトもまた、同じことを思っていた。
「本心を否定してしまったら、どこに行っても仕方がない。」
全くそうだよなあ、と私も思ったわけです。

しかし、非常に残念な事実ですが、いくらそのような思いを抱いて苦しんでも、それでどこかに行けるかといえばそれもまた違うのです。

そのときの会話は、確かに共感を引き起こしはしました。
しかし、私はその一方で、語られる言葉の陳腐さに愕然としたものです。
自分の言葉はいざ知らず(というのも、人というものは言葉を発するあいだ、それが自分の思いを十全に表現してやまないと過信しがちだからです)、クラスメイトの語る言葉のなんと薄いことか。
「本当にやりたいことがない」なんて、甘えじゃないのか、と私ですらそんな思いがよぎったほどです。
きっと私自身の言葉も、録音でもして聞き直せば、非常に恥ずかしい若者の戯れ言としか受け取れないものであるに違いありません。

エントリーシートも面接も、就活に前向きな人たちからすれば、最終的にはうまくいくかどうかは言葉やコツ、それと企業との相性の問題でしかありません。
しかし、もっと根深いところで食い違っている人には、そういうありきたりな処方箋なんてクソみたいなものでしかないと思います。
言葉を尽くせば、エントリーシートで落とされ、言葉でウソをつけば、不全感で気が狂いそうになる。
そういう私たちには、もっと決定的なところでの変転が必要になるわけです。

生きていくのは、現実と、つけきれない折り合いをつけようとし続けること、だと私は考えています。
就活は、その折り合いをつける契機を見出せていない人には、本当につらいです。
自分を全否定されます。
「学生の自分」「社会人の自分」なんてものは本当はなくて、自分とは常に今の自分でしかない、とつくづく私は思うのですが(だからそういうことを言っている人は、実は裏ではずいぶん一貫した信念を持っているもので、決して子どもから大人への命がけの跳躍を果たしたわけではなく、流れるようにうまく大人になることに成功した人のはずだ、ということには注意しなくてはいけないと思います)、人によっては就活において本当にその「自分」を踏みにじられます。
ただ、この事実の見方は残酷に見えるものではあるかもしれませんが、同時に気休めにもなります。
社会と自分は、就活に体現されるようなやり方では折り合いがつけられないんだ、という留保をして、じゃあ少し違う道はないか、と模索する一歩を踏み出すのに、多少は役に立つはずだからです。

マジョリティにとって「就活」が一つの方法であるように、苦しい思いをしている一種マイノリティ的な人にも、何か方法があるはずです。
大事なものをことごとく断ち切って、死んだような顔で前に進む諦めではなく、うまく流れるように、一種の大人になるための方法が、ないことはないと思うのです。
それは明文化されているものでは決してありませんし、答えは簡単に転がっていないし、自分で各々模索しなくてはならないものかもしれません。
けれども、そのほうがかえって生きた心地がする場合も、あるのではないでしょうか。

私は人生のプロでもなんでもない、一介の無い内定の大学4年生にすぎません。
だから、言っていることに現実的な有効性がどこまであるかは分からないです。
でも、私が就活やらなにやらを経験した結果として、上記のようなことを感じたのははっきりと確かです。

そうしてそのようなうえでどうあがいていくか、それについては部分的なことしか言えないと思いますが、いずれにせよ後日また書いていこうと思います。