「浮気」試論 すべての恋愛に生きる人へ
僕の好きな思想家に、吉本隆明という人がいます。
よしもとばななの父親、というと、ピンとくる人には、ピンとくるかもしれません。
戦後思想界の巨人、と称され、数多くの著作を残された方です。
去年惜しまれながら亡くなりました。今にして、非常に残念に思います。僕も生きているうちに、どこかでお話させてもらいたかった。
彼の著作は、たかだか四冊かそこらしか読めていませんし、それもどこまで理解できているかについては、どこまでもわかりません。
見当はずれな読み取りをしている箇所がいくらあるか知れません。
しかし、それをおいても、やはり彼は僕の好きな思想家です。
彼の著作に、「共同幻想論」というのがあります。
そこで彼は、人間の営みというのはすべて「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」という三つの幻想領域に含めることができる、三つの概念を用いて説明が可能なのだ、ということを説きました。
「自己幻想」とは、人間が自分自身について持つ幻想。
「対幻想」とは、人間が個別的な他者(恋人、家族が最たる例でしょうか)とのかかわりについて持つ幻想。
「共同幻想」とは、人間が他者と集団を編んだときに、それについて持つ幻想です。
彼自身の著作における論は、この三つのかかわりを原初的な集落の中において読み解いていくものになっている、というのが、通り一遍な理解になると思います。
僕もそれ以上のことはちょっと言えません。
全然理解できていないかもしれないのが怖いので(笑)
さて、本題に入っていこうと思います。
「浮気」というものがあります。恋愛をしている人間にとっては普遍的な問題であると思います。
浮気はいけない、浮気はしていい、浮気はしたくない、浮気は許せる。
色んなことが、浮気について言われています。語られています。
それは、浮気という問題が実に人間にとってのがれがたい問題であるからです。
意志の力さえあれば、浮気なんかしないですむんだ、というのははっきり言って世迷い言ですよね。
じゃあどうして浮気は世の中からなくならないのか。
それに答えられない限り、「意志の力」などということでは説明はつきません。
浮気したくない。
僕は、恋愛においては、そう考えています。
おそらく、大切な恋人がいて、恋人を裏切らずに愛し続けたい、生涯の伴侶としていきたい、という人は少なくないと思います。
僕は、そういう人に向けて、今回この文章を書いています。
さて、浮気という問題はどうして起こるか。
僕が考えてみたときに、一人重要な人物に思い当りました。
ジークムント・フロイトという心理学者です。
これまた著作にはまともにあたったことがないため、wikipediaでも集められる程度の知見しか、この人については持っていないので(だから、アカデミックな人にいじめられたら僕は一発で終わりです。でも、アカデミック向けにこの文章を書いているわけでは全くないし、文章というのは読まれたい人を想定して書かれるべきであるし、読まれたいように読むべきであると思うので、それは気にしないことにします)、まともなことはあまり言えません。
ただ、素人の生知恵で彼のなしたことを言うとすれば、それは「無意識の発見」です。
つまり、人間は理性や意思で動いているように見えて、全くそんなことはないんだ、実はもっと内奥の衝動的なものにつき動かされているんだ、ということです。
そしてフロイトの場合は、その衝動的なものをリビドーと呼んだわけですね。
そして、浮気はどうして起こるか、という問題です。
僕が思うのは、浮気というのは、このリビドーのようなもの、つまり生物的本能によって起こるものに他ならない、ということです。
意外と当たり前のことを言いました(笑)
でも本当にそうですよね。
性欲や、そうでなくても衝動的な欲望って、抑えるのは非常に難しいものです。
自分の意思や、理性的な思考も、こういった内奥のものに操られている、といって過言ではない。
気がついたら、言い訳するようなものの考え方をしちゃってた。
「一回くらいは大丈夫」「ばれさえしなければ関係は壊れない」といった思考をたどっていた。
そういうことは、あると思います。
本当に人間が理性的な存在だったら、こんなことを考えませんよね。
そして考えているときっていうのは、大体、体はもう興奮していて、男だったらナニがギンギンになっている、とか、身体のほうにまで徴候的なものがあらわれていると思われる。
人間は理性的に生きるものなどでは絶対にありません。
もちろん、理性がおしとどめる場合というのもないではないでしょうが、やはりその力には限界があるといえるでしょう。
ところで、単純な性欲とかで浮気なんかしてねえよ、という人もいると思います。
彼氏に相手にしてもらえない寂しさを埋めたい、遠距離恋愛の苦しさに耐えられない、そういう中で本当に分かってくれると思われた相手とつい浮気をした、といった話はよく聞きますよね。
たしかに、それは「セックスしたい」というだけの単純な心理に基づいてはいないかもしれません。
でも、性衝動というのは、かなり迂遠な形を経てであっても、やっぱり人間を「相手を求める」行動にかりたてるものです。
それは人間が生物であるがゆえ、だというほかないと思います。
人間が想像する理想的な個人単位の他者との結びつき、というのは、リビドーから派生した対幻想である、というふうに考えていいのかな、と僕は理解しています(全然的外れかもしれないけど)。
つまり、性衝動が迂遠な形を経て、他者とどのようにつながりたい、という原型的なイメージを決めている、ということです。
母子のような関係を求める人もいれば、本当に分かり合える関係を求める人もいると思います。
それは、多分性衝動が形を変えたものに近いのではないでしょうか。
そしてたいがい、この原型的な関係のイメージというのは、とてつもなく実現が難しい。
母子一体的な関係をめざしても、人間は生きていかなくてはいけない、労働しなくてはいけませんから、そのなかにずっととどまり続けるのは極めて困難です。
あるいは、本当に分かり合う、というのもこれまた難しい。
先にも述べたように、人間の思考が厳重に無意識にしばられたものであるとするならば、人間が理性的な言葉で話し合い、互いを完全に理解する、といったことは、どうして簡単にできうるでしょう。
こうした原型的な関係のイメージが、実現不可能に思われるほど、絶望的に達成しにくいのはなぜかといえば、それは、それがどこまでも人と人を結びつける衝動として役立ちうるからです。
やはり生物としての本領である「子孫を残し続ける」という仕事を、なさしめるのに好都合だからです。
と考えると、僕たちが理想的なものを求め続けるというのは、本当に意味のあることなのだろうか、と嘆きたくなりさえします。
浮気はしたくないですよね。
今大事にしている恋人にたいする、好きな気持ちを、いつか失ってしまうことは、とても怖いし、そんなことが起こるのは悲しいことです。
失恋はするものだ、という風潮もありますが、そういう大人な諦めのようなものに屈するのを、よしとしたくない人はいるはずです。
むろん僕もその一人です。
浮気をしない、好きでいつづける、というのは、本当に困難な、闘いなのです。
それは、ある意味、反・生物的に生きることである、と言ってもいいのかもしれません。
だから、なまなかな気持ちでそれが可能であるなどということは、断じて考えるべきではない。
本当に愛しぬきたいのなら、それだけの、闘う覚悟が必要なのです。
自分の心に、本当に裏から忍び寄るようにして、浮気に結びつく衝動は入りこんできます。
それを逐一チェックし、自分に問い直していく、そういう不断の努力が求められるわけです。
エネルギーがいります。
普通に生きているおまけのようなものとして、恋愛を考える限り、「あなたを一生愛し続ける」などという文言は、約束に絶対になりえません。
十年後、二十年後、どうなっているかは絶対に分からない。
だから、思考を休めず、恋愛にエネルギーを振り向けつづけることが重要なのです。
もしかしたら、そんなことでは、出世なんて望めないかもしれないし、結婚も邪魔になるかもしれない。子どもさえ持つことがためらわれるかもしれない。
それでもなお、考え続けられるかどうか。
浮気をしたくない、と思う人に問いたいのは、そこまでの覚悟があるか、ということです。
ある意味、現存する一生物としての人間たる自分に対する、挑戦が、「浮気をしない」ということでもあるわけです。
意志ある人は、がんばりましょう。
つらい道のりかもしれませんが、先に待っているのは、衝動のもたらす快楽以上の素晴らしい何かであるかもしれない。
僕はそう信じて、恋愛にエネルギーを注ぐのです。