腰を据えて何かやってみたらこれまでと違うアウトプットが出てくるかもわからんね
Twitterはどうしようもないな、と最近思う。
向いていないのかもしれない。
変に人目を意識するかと思えば、独りよがりにわめいてみたりする。
どういうふうに付き合っていけばいいのか分からない。
やめればいいのか。無理かな。
カルボナーラ作りすぎた、とか、『誰も知らない』が肚にずしんときました、とか、つぶやいてみて、それって誰のためのつぶやきかな、と思い返してみる。
やっぱり人によく見られたい自分がそうさせている。
ちょっとおしゃれにカルボナーラなんか作っちゃって、文学的な邦画なんて観ちゃって、なんていうことでファッショナブルさを演出したい自分が。
で、結局その演出は失敗している。
いや、成功しているか失敗しているかさえ定かじゃない。
人の目の意識する自分の側は、「人の目」にいびつなイメージしか持っていないから。
物事を勝手になにかの兆候だと解釈してみたり退けてみたりして、それで一喜一憂している。
ばかばかしいはずなんだ、そういうのは。
思えば、ずっとファッション感覚で色んなことを装ってきたようにも思える。
本を読んでます、という顔をしてみたり。
難しげなことを文章にして、人目に曝してみたり。
でも、その気取りは結局失敗している。
自分を無にして他人の耳目のありのままをとらえるには、自意識が強すぎる。
結局そういう中途半端さだけはある。
偉大な芸術家みたいな、反社会性すれすれみたいな強烈な自意識もなければ、生きるのに役立つうまい論理に身をゆだねるだけの器用さもない。
そんなどっちつかずさを生きているのが俺なのかな、というような気がする。
ナイーブな装いと就職活動を交互にやりながら過ごしたりなんかできるのは、そのせいだ。多分。
頭の中には素敵な物語が展開している気がするのに、他者だらけの世界にそれを叩きつける勇気が、今一歩たりない。
ちょっと今の俺は悲しい。
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ちなみに就職活動もずいぶん不安です。
出遅れているぞ、と突きつけられる場面に多く出くわす。
お祈りされて冷や汗が出る感覚だけはなまじ味わったから、不安の量も毎回結構なものではある。
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言葉を与えられない領域に形を与える。
そのために小説っていう仕事はある。
いいじゃない、もやもやってしたことに実体を与えることに専念すればさ。
自分に宛てたら、どこかにいる仲間は響きあってくれるよ。
非難されるのが怖いなら、目をつぶって耳をふさげばいい。
だからやりなよ、誰に気兼ねすることもないよ。
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とりあえず目の前のこと一個一個やります。
一個一個にあたっていくうちに、嫌っていた論理に浸食されていくかもしれない、そのことがたまらなく怖くはあるけれど。
こうやってぐちゃぐちゃを抱えこんで吐き出して、自分なりの抵抗のポーズらしきものを、とりつづけていこう。