今後やりたいこと

ああ自分って使い分けられるものなんだなあ、と実感する日々。
と同時に、勝手に切り替わっていくものでもあるのだけれど。

趣味というか片手間の生涯学習というか、に向かう自分。
就職活動の場で、慣習法的によいとされている物の切り方を学ぶ自分。
恋人と向き合う自分。

読む、ということについては本気で考えていかなきゃいけないのだけれど、実感レベルで言えるのは、やっぱり切り替え切り替わりしている自分のありようによって、言葉が自分のうちにどんな入りこみ方をするかが変わるということだ。
それはまた、自分がどのように世界を受け取るか、ということでもある。
その受け取り方みたいなところはずいぶん小さい頃にだいたい決められてしまっている気はするというか、反応の型みたいなところは須らく幼少期に形成されるのだろうな、というか。
そんな気がします。

そういうのをほんとの意味で相対化して見つめる視点を持ちたいです。

たとえば、「全てのものは相対的で、何が正しいものかなんてわからない」という言葉を発するのは、なんとか世界を正しくないもの、自分に勝らないものとして見つめたい、そうすることで自分が正しいものに損なわれるのを避けたい、という思いの表れだと思う。
昔「何が正しいかなんて分からないよね」という文章をSNS上に書いたら、「お前って批判されるの嫌いそうだよね」と言われたことがあったけど、まさにそういうことだ。

ある思考が自分(あるいは人間)のなかに成立する根拠みたいなものは、思考以前にある。
自分が現在進行形で生きている環境もそうだし、親の教育や過去に育った環境もそうだし、さらに言えばその環境を規定している要因(経済の形態とか)にも求められるはずだ。
そういう根拠の成り立ちを知りたい。
(そのことを知るうえでの自分の頭の動き自体が、その環境に固有な要因に規定された特別なものでありそうだ、という問題もあるのだけど)

たぶんそういうことはフーコーがやっていそうなのでしばらくフーコーを趣味で読みまくります。
精神医学しかり、知という「カオスを切り出すもの」が、どういうふうな要因に規定されて、カオスに向き合ううえでの一定のポーズをとらされているのか。
それはおそらく、テクストという異なる解釈がいくらでも許されるものを「読める」というのはどういうことか、正しい読みという議論はなにか、といったことを考えることにもつながるはずです。
それは加えて言えば、正しいー誤っている/正常ー異常という、ものの切り方の大元の成立条件を追及することの基礎にもなるはずです。

だいたい今、生きやすさと生きづらさの狭間でさまよう自分が考えたい物事はそのあたりです。
それは、「何が正しいか分からない」と切実に思わなくちゃいけない人がたくさんいる、その状況を規定する大元の要因をさぐりたい、ということでもあります。

それにしても、こういう問題の立て方というか、方向性をつかめた背景には、すごく「自分」というものを自分なりにどうとらえるか、が変わったことがあったように思う。
自分は世界との相互作用で成立しているものだ、変わることを拒み続けた自分はそもそも絶対的なものなんかじゃないんだ、ということ。
そういうことに、就職活動を案外できてしまいながらも、恋人と幸せを享受している時間にはそのことを憎みさえする自分が、矛盾しているようでいて存在できてしまっていることを思ったときに、ふと気づいたわけだ。
そうなったとき、不思議と世界にたいして自分がとるべきポーズが定まったように思う。
言ってみれば、自分というもののイメージが変わったのだろう。
自分とはこういうものである、という捉え方が、就職活動の再開を経て変わったのだ。
それはもっと言えば、食うために稼ぐということや、苦しみから逃れたい欲求に、今までにない切実さが得られた結果として、地に足のついた具合の「自分というもののイメージ」が成立した、ということなのかもしれない。

とりあえず、文学的な意味での自分のやりたいことの方向性はちょっと見えたので、一歩一歩具体的でしんどい手作業に着手していけたらと思う。
本、少なくとも学術的なものに近い書籍にかんしては、今までとは違う、いわゆる「有意義な」読み方を実践していけるような気がする。