にき
終電後の帰り道、足元で乾いた音がしたと思ったら、死にかけのセミの羽を踏んでいた。
生きていたことを思い出したみたいにセミはばたついた。
それを残して夜道を歩いて帰りました。
喉元まで出かかっているのは個人的なことばかりで言葉にできない。
俺を知らない人に読ませるためであれば、フィクションのお話を装って何とでも書けるんだろうけれども。
この、読まれたいわりには読まれたくない感じはなんなのだろう。笑
名古屋に行ったら死ぬほど働く気でいます。
休みとか遊びたいとき以外は週イチでいいんじゃないかなみたいな。
残業とか全然しますよみたいな。
いや体が先に拒否るだろ、というセルフツッコミも入れつつ。
仕事できるようになりたい、早く自分の足で立ちたい、という気持ちもある一方、どっかで余計なことを考える余地をなくしてしまいたいと思ってる。
仕事で余白をぬりつぶせ、みたいな。
人によるとは思うんだけど、空白の時間は必要以上にあってもいいことがない。
わけもないネガティブな感情ばっか湧いてくる。
それが何かに繋がればいいけどそういうわけでもない。
自分について考えても、スタート地点が自分だから、いつまでたっても深まらないし。
自分を知りたいなら外を見たほうがいいんだよね。
他人や世界を鏡にする。
自分の好きなものを並べてみたり、歴史や異文化にふれたり。
自分を媒介にして世界と自分そのものが関わる、その関わり方に目を向ける方が、自分のこともわかる。
生きてる意味なんてものも所詮は、考えてるときと考えてないときがある程度にしか考えていない。
「生きてる意味ってなんだろう」なんて問いは「生きてても不快だ死にたい」という気分の言葉に変換される程度のものだ、という場合が、多い。
うまくいってるときに人生の意味なんて考えないでしょうよ。
実は気分の問題に帰せる話を、さも大問題みたいに考え続けるのは、結局気分に振り回されているだけだったりするから、寝た方がよかったりするのだ。
もちろんそういう気分について、それを生んでしまう条件を考える有意義さのようなものを否定する気はまっっっっったくないけれど。
でもそれって元気なときのほうが捗りそうじゃないですか。
まあ元気なときは色々忘れてんだけどね。
元気なときにふとふれた、先達が教えてくれることの中に、気分のむらでしかないものについての諸条件みたいなものが、ぽっつり示してあったりして、たまたまそれを「大事なことだなあ」って気づきつつ受け止められたりしたら、上々じゃないかと思います。
ちょっとは勉強せな。
おわり。