そのうちちゃんとまとめたい

疲れているのを言い訳にしたくはないのだが、明日は仕事もそんなに根詰めてやる必要もなくて多少どっと疲労が押し寄せている感じがある。
たまには流されるにまかせて、ここ数日考えていたことでも書き残しておこう。

まさに書き残しておくということが問題だ。

人間にだけ許されていることとして語られる物事はたくさんある。
「言葉をしゃべること」「記号を用いること」「道具を作ること」などなど。
いずれも正しいというか、納得できる側面はあると思う。

ここでフォーカスしたいのは、人間は遺伝子以外の何かを世界に残せる存在だということだ。

(余談だけれど、仕事のせいか、断定的な物言いというのは迂闊にされてはいけない、きちんと論証されたより正しい言葉を使えないのであれば語る資格はない、みたいな考え方がだんだん染みついているような気がする。もっとも、そのことも今日書くことと関わる部分があるのだけれど。)

正直言って僕はやっぱり書くことに唯一救いを求めながら生きている気がする。
日々の些事に目を向けてそれらに楽しみを見出す人もいれば、仕事を生きがいにする人もいる。
でもどうも僕はそういうふうになれない。
作った飯がうまけりゃ嬉しいし、仕事が一つ片づけば達成感もある。
だけどやっぱり死んでから何が残るのかと思うと、逆算して今生きている意味を考えたとき、「別にいつ死んだって同じなんじゃないか」としか思われない。

僕はできるなら賭けたい。
とりあえずこの人生においては書いて、残してみようと思う。
そうやって残そうとした言葉が、せめて僕が死んだあとしばらくは生き延びて、誰かに影響を与えてくれたら嬉しいと思う。
もちろん、生きているあいだにそうなったって構わない。
あるいは、もっと言えば、書いたものによって僕の人生がより輝くものになれば至上の悦びだ。

だから、僕にとって、今何かを書いていることは「何かを残すこと」と密接に関わっている。

裏を返せば、僕は残りもしないようなものを書きつらねたくはないのだ。
ないのだ、とまで言い切ってしまうには熱意や勢いを欠いているような気もするけれど、そこまで言い切りたいのが本音だ。
インターネットや、いずれ捨てられるノートの切れ端に、残りもしない形で書かれたものに何の意味があるだろう?

そんなもので満たされない欲望を埋めようとしつづけてもどうしてなかなかどこにも行けない。

もちろん気分のムラがあって、誰かとかかわっていないと、人肌にふれていないと眠ることさえままならない夜もある。
でも、その気分に振り回されつづけていたら、きっと50年後も同じようにしているんだろうと思う。
50代を迎えた知り合いが言っていた、「いずれ何か変わるだろうって思ってるかもしれないけど、ずっとそのままだよ、きっと」。
そうなのかもしれない。
そうだとしたら、せめて賭けに出る姿勢をとりつづけていたいではないか。

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ただやっぱり、ずっと残るもの、なんて簡単に書けないな、と痛感しています。

自分の頭で考えることなんて、結局のところその日の気分次第でころころ変わっちゃうんだから。
確たる何かがあるとしたら、日々によってそれを中心点として、思考はいくらか偏差を持つ。
ある日はポジティブだったり、ある日は鬱々としていたり。

そんなブレを排して何か確実なものを生もうと思ったら、自分の外側に目を向けるしかない。

自分の外側にしっかり集中して食らいつける人ってのはやっぱりすごいなって思います。
飯食ってたら、法学部の学生が熱心に国際法について話し合ってて、「それお前らの人生に関係ないじゃん」って思ったわけですけど、そういうことじゃないわけですよね。
あるいは文学にしたって、人生の諸問題を扱っているようでいて本当はちょっとその人個人からは浮いたところで行われてる営みなんですよね。
カントの哲学もそう。理性や悟性のなりたちをいかに体系づけたとしても、カントだって昼は腹減っただろうし天気が悪ければ気分も下がったんじゃないでしょうか。

何かを残すっていうのは、何かに取り組むっていうのは、自分をきちんと度外視して、その外側の対象に目を向けるってことなんだと思います。

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サンタさん今年のクリスマスは集中力をください。