にっき

必要なもの

ドライヤー

服を買うのに悩む原因を考えてみたら、「何を着てもパッとしない」ということにつまづいてるんだとわかって、「なんでパッとしないんだろう」と思ったら、髪型の重要性ということに行きついた。結局のところ同じ服を着ても首から上が手を抜いているとだらしなく見えるものらしい。

お洒落をしたいというよりは、着たい服を選べなくて何も買わなかった結果また翌日に「着る服がない!」と騒ぎ出す(リアルに今の季節に着られるものが現状2着くらいしかない)のをいい加減やめたいのである。だから何を着てもそれなりに自分を許せるように、服を買いに行くときくらい髪型をまともにしようと思った。

で、髪型ってどうやったらまともになるんだろう?と思ってネットでちらりと調べたらドライヤーは必要不可欠だと書いてあった。現在うちにはドライヤーがない。社会人としての生活が始まって半年経ったくせにこれまでドライヤーのない生活をしていたのも考えてみるとひどいもんだと思うが、別になくて困らなかったというのが本音である。今になってさっさと服を選べないという困難が生じてようやくドライヤーを買おうと思った。

何を着ても一緒じゃん、とはなれない。かっこよくなれるとはあんまり思えない(かっこいいのハードルが自分の中で高すぎて永久にクリアできる日は来ないとわかっている)けど、ダサいのは嫌だ。写真を見て自分がだらしない服でだらしなく笑っていたりすると嫌気がさしてしまう。その割に楽して見栄えをよくしたいなんて考えているから厚かましい。

「うんまあこれでいいじゃん」と自分で納得できる恰好をぱっぱっと選べるスキルがほしいところだ。見栄を張るのに時間を使うのはちょっともったいない気がする。

 

すると決めたこと

本屋に長居して立ち読みをするように心がける(いい本はちゃんと買うよ)

好きな本屋で三時間くらい立ち読みしながらぶらぶらする、というのは読書効率の観点から言って悪くないんじゃないかという気がした。立ちながら読むというのは、大して面白くない本に関してはできない行為なんじゃなかろうか。足の疲れを差し引いてもなお読んでいたい、と思えたらそれはちゃんと好きな本かもしれない。

で、どうせ長々読んでいても読み切れるはずはないのだから、面白くて続きが気になって仕方ないような本はそのまま買えばいい。そうすれば本を売る側にも迷惑はかからない。

やっぱり作る側に回ると、いいものだと思ってくれたのだったら対価をきちんと支払ってほしい、と思うようになる。タダで楽しみやがって、という気持ちというよりは、「いい」と思ったその気持ちを対価という形できちんと示してほしい、という感覚だ。

それはいいとして立ち読みの話だけど、結局読書も何も「好き」じゃないと広がらないのだ。好きだと思ったりいいと思ったところから広げていくしかない。何かを好きだと思う気持ちは誰にでもほんとはあるんだと思うけど、それが活性化しているかどうかは別問題になってくる気がする。疲れて何もする気しないよ、って思ったら好きなものにも目は向かないし。自分に自信がないと「これは本当に自分の好きなものなのか?」って思ったりするし。でも人間そんなに時間はないしどうせやれることには限界がある。限界があるなかでいいものを残そうと思ったら、やっぱり自分の審美眼が反応するところを深めていくしかない。

それにしても小林秀雄の学生との対話が本当によかった。よかったよかった言ってて美化されてるかもしれないけどいちいちいいこと言うなあと立ち読みしながら思ったものだ。今日書いていることも八割がた小林秀雄の受け売りだけど、あんなふうに力のある言葉で表せないのが悔しいところである。

 

明日すること

ソファー搬入の準備

ソファー買ったからベッドをロフトにあげてその位置にソファーを置く。座れる生活が始まる。うれしい。

 

資源ごみ(段ボール)の処分

いい加減じゃまだ。

 

お金

使い方がへたくそだ。変にやせ我慢するのに変に使ってしまう。本当に使いたいところにうまく使えればいいのに。

本にせよ服にせよ買うのが本当に苦手だ。選べない。結果古本とか古着とかで済まそうとして安物買いの銭失いをしたりもする。非効率かもしれない。選べるようになりたい。

……選ぶって言葉使い過ぎだな。「選ぶのが大事」って信じられるようになった自分がうれしいのかもしれない。

まあピンとくるものに大事にお金を使っていけばいいということだろう。