一本書きあげてしまって(といってもまだ完全に仕上がったわけではない、もう少し蛇足をつけるつもりだ)、さあ次に取りかかろうと思ったら全く何も出てこなくて焦る。

 

創作など結局のところ壮大なオナニーなのであるとしよう。だとすれば一度オルガズムに至ってしまえばしばらくは放心状態が続くわけである。身体なんか一ミリも動かない。ピクリともしない。そこから立ち上がってさあ次に参りましょうなんて、そんなのがそそくさといくわけがない。

 

と思いたい。

 

一日も休むこと倦むことなく続ける、といったときに果たして「書く」という行為だけが行いとしてみなされるのか。そうではないだろう。アイデアをひねりそれを膨らませスタートを切り走り走り走り、そうやって作品はできる。毎回そうだ。

 

頭の片隅で思っているかぎりはどのみちアイデアの出ないことを嘆き続けられるんだろう。そうやって嘆き続けることにもそれなりの意味はあるんだと思う。一度は爆発し塵一つ残さず消え去った欲望の爆弾はいずれふたたび膨らんでくる。生きている限りはきっとそうだ。それがちゃんと続く。

 

しばらくは朝方の生活に切り替えようと思う。うんざりしながら焦り焦り本を読むような生活はまっぴらごめんなのだ。朝起きて多少すっきりとした気分で「優雅に」本を読み音楽を聴き続き物のドラマやアニメを見て仕事に出かけ頭の片隅では何か新しいものにつながる端緒はないかと考え続ける。

 

楽しむ余裕、なんてものはこれまでだって一度もなかった。

どうせこれからもそれが続くのではないかという気がする。いつも何かに急き立てられ追われているような感覚から逃れられないのではないかと。そういうふうに生きていますよ、という証として作品まがいのものを生み落して世の中に放り投げる。その繰り返しがこの先も続くのではないかと。

 

僕にとって何かを学ぶというのは義務に急き立てられた何かであるか、あるいは義務感でがんじがらめになって苦しい汗を流している合間にふっと入ってきた涼しい風のような何かであるか、そのいずれかだ。

楽しんだ結果として何かを学んだことや直線的な成長を追い求めた結果何かを得たことというのはほとんどないように思う。

結果として行き着く先というのはあるいはそう変わらないのかもしれない。

想像としては、僕の中にたまっていくのはろくに変わらない核にゴチャゴチャと結びついた相互に結びつきのない概念と、その周りを何の脈絡もなくふよふよと漂うこれまた相互に結びつきのない記憶なのではないかという気がする。

ある意味では体型だてられていると言っていいのかもしれないが僕としてはそれを体系的に記すことそれ自体から価値あるものを得られることはないように思える。

頭のいい人間というのはもっとたくさんいるだろうから。

 

いずれにせよ次に何か書くとしたらもう少しスケールの大きなものがいい。あと表現や技術の部分にかんしてももう少し詰めていきたいとは思う。