なぜ小説か

自分が取り違えてなければいい話だけどなぜ学問ではなく小説なのか。
文学なのか、という問いには……置き換えて考えるのが本当なのかもしれないけどそこまでいくとあまりにも大風呂敷だ。

一つにはやっぱりコミュニケーションのためなんだろう。
学問にもそういう側面はあるのかもしれないけど僕にはもうちょっと屈折した自己主張欲みたいなものがあるから。
たぶん真実がどうとか真理がどうとかいう前に自分のことを伝えたいのだろう。それが先にあるのだろう。
哲学と文学が近づいたのはここ最近の話で(要出典)、思想的なものが激しくからんだ哲学みたいなものと文学の距離というのはだいぶ近いのかもしれない。だから哲学やってる人には変人が多いのかも。というか変人がやってる哲学は一種芸術的というか自己主張したいっていう根深さのようなものに基づいてるのかもしれない。
もっとも全部が全部そうだとは言わない。

逆に言えば昔の哲学なんてのはほんとに科学と切り離しにくい部分があって、当時の科学的アプローチの限界からすれば頭の中だけでいろいろ考える哲学の手法も十分科学的だと考えられた部分があるのかも。
もちろんそこには諸々の相互批判みたいなものがあって、哲学も「頭の中であれこれ考えてるだけでわかるか!バカ!」みたいな非難を食ったりしていただろう。
しかしその非難が致命的になりうるかどうか、「いやいやゆうてもそんなんわかりませんやん」という返しが効くかどうか、の度合いは今と昔じゃ相当違っていたのではないか。
哲学が思想的な営みだとみなされるようになる系譜は科学の進歩と裏表だったり、ということで。
もっともそれにしたって、神経科学やら何やらの実証的知見と結びついた哲学がある以上はけっして闇雲に言える話ではなくて、ここでいったことなんてのはあまりにも粗雑なモデルだとは思う。

まあいろいろ大きな流れがあってその中で小説なんてせっせと書くのは、「いろいろあるけど俺だって生きてるんだ!!!」と叫ぶためなわけで。
しかし僕の叫びというのはどうもなかなか他人に届かない。
だから悲しいくらい時間をかけて言葉を練り上げ「もういいや疲れた」って思う程度には長々とメッセージの中身を検討したうえでそれを世の中に投げ入れる。「俺だって生きてるんだ!!!」

文学の位置づけだって変わりに変わってきただろうから「お前(含めて大概の人間)の今やってるワガママな物書きなんてやっぱり価値もへったくれもないんだよ」と言われてしまえばそれまでなのかもしれない。
文学が何かしら巨大なものに貢献した時代なんて終わってしまったんだよと客観的な理屈で述べたてられて言い返す自信は正直なところ、ない。

でも生まれてしまって死ぬこともできなくて今生きているなかで自分をさらすには、なるべく正直に文章をしたためるしかないのだ。それ以外の術を今のところ俺は見いだせていない……。

他人をどうこうするために文章を書くわけじゃないのだ。だいいち他人をどうこうできる文章なんてものを書くのは俺にできる仕事ではない。感動させる? 考えさせる? 違う、感動するも考えるも、読み手が勝手にやることだ。ありがたいことに勝手にそうする人が俺の書いたものの読み手にはいくばくか居てくれる。

こういう人間が生きていました、というケーススタディを残すくらいのことで貢献はできるだろうか。それとも後世には顧みられることなく消えていくだろうか。顧みられるだけが「意味を持つ」ということではない。バタフライエフェクトという言葉を思い出す。俺に感化されてくれた人がわずかに震動することで世界もすこしだけ共震されるかもしれない。
無意味だと言ってしまえばそうかもしれない。あまりに意味を求めすぎるとすぐに無意味という言葉を使いたくなるものだ。

多少勉強はする。
しかしそれはあくまで物を書く道具立てや基礎を得るためだ。知識それ自体の発展みたいなことはもっと他の人に任せればいい。もっと頭のいい人がどんどんやってくれるだろう。バカなイデオロギーが付与されたのを嗅ぎとれば生きづらい俺たちはたちまち騒ぎ出せるわけだし。いや、気づくことなく見過ごすこともありうるかもしれない。でも「まだほんとに言ってやりたいことが言えてない」という欲ぶかさを捨てずにいさえすれば、見過ごすことの数は減るかもしれない。あくまで欲ふかくやればいい。欲ふかくある限り、その欲を満たすための道具立てを俺たちは学び取るし、その欲に巧みに立ちふさがる欺瞞に異議を申し立てることができるはずだ。

長々と書いたけれど要はやっぱり私は欲がふかい。そしてそのわりに欲を満たすのがへたくそだ。だから小説書くしかないのだ。学問がダメなのではなく、僕と学問の相性の問題なのだ。

俺だってかわいい女の子とエロいことがしたい。