遺書

11月に朗読会をやることになった。

読んでもらうためのものを書き下ろさなくてはならなくて、ようやく手をつけはじめたのだが、書きはじめる直前まで、あることでふてくされた気分になっていて、ある思いつきを無理やり通そうとしていた。
簡単に言うと、「遺書」を書こうとしたのだ。

会場を提供してくれるお店のマスターにも「遺書でいきます」と宣言してしまった。
マスターは「俺自身、死ぬってことについてはめちゃくちゃ考えてきたから、どんなものを読めるのか楽しみだ」と挑発的な返事をくれた。
それに煽られたこともあって、ここ数日考えこんでいた。
遺書、何を書くべきか。

そこから数日。
結果的に、遺書なんて書けないな、と思った。

遺書なんて書いて死ぬ奴はバカだ、と思ってしまったのだ。
少なくとも、遺書と呼ばれるものが人の心を打つのは、それが死ぬ寸前の最後の叫びだからだ。
死ぬしかない、でも死にたくない、その足掻きのなかで書いた遺書だけが本物になる。
なまじ人生に期待を残しているような人間が、生きている誰かに遺してやろうとしてあざとく書いたものが、人の心を打つわけがないのだ。

太宰治の遺書は、文面だけ見ると「たしかになあ」というくらいだけど、生の筆跡を見るとすさまじいものがある。
殴り書いたあと、その紙をグシャグシャに丸めているのである。
限界ぎりぎりの縁でこしらえたためらい傷のようだと思った。
ああいうふうにしか、遺書なんてものは成り立たないんだなあと。

そんなわけで、生半可なものを書いても仕方ないので、恥をしのんで方針転換をはかっていくつもり。
今日書いたものを着想の端として、何事か膨らませればいいなと考えながら、ひとまず明日に備えて寝ます。