「みんなちがって、みんないい」が単なる横暴になるか他人への優しさになるか

アドレナリン出っ放しの生活にもそろそろ疲れてきました。

はえーよ。

元気出せよ、まあゆっくりしろよ。

 

些細なことが気になります。

メールの返信がないと心配です。

返信が浮かない内容でも不安になります。

なんにも変わってねーな。

 

なんだろうね、完璧なんてどこにもないんですよね。わかるよ、わかるわかる。

完全無欠の相手なんていないじゃないですか。

完全無欠の僕にもなれないじゃないですか。

 

そのうえで向き合う/それでも夢を見る……まあ、これは別物ですよね。分けて考えられることなのかわかんないけど、別物ですよ。

僕はハイブリッドなのではなく中途半端なだけなので、現実にきっちり根ざしながらときどき夢見がちに暮らす、みたいなことがうまくできない。

いや、できるようになりたいんだけど。

俺が小説書くってそういうことだからな。

それでも夢を見るために小説書くわけだから。

でも現実ときちんと向き合いたいってのもあるわけだから。

もうちょっと賢くなりたいもんですね。

 

失うことが怖いのは、相手が失われること自体を恐れているというより、相手を失った自分の苦しみが怖い、だけなのかもしれない。

結構身勝手なもんですよね。

だから、失うことを素直に怖がってばっかりいちゃいけないんだというか、その自分勝手に他人を巻き込みすぎちゃいけないというか。

 

いくら繰り返したって慣れるもんじゃない、いずれ泣かなきゃいけないときは来る。

それはもうしょうがない。

それは自分が引き受けるしかない問題だ。

「君が明日死んだらどうしよう」ってずっと相手に言いつづけるのかってことですよ。

相手はその間も生きていて、一歩一歩死に近づいてるっていうのに。

その時間、怯えていてどうするんだ。

もったいないぞ、できることあるだろ。

楽しむとか、賢くなるとか、いろいろと。

 

なんだろね、全部一緒じゃなくていいんだって、なかなか思い切れないよな。

俺は絶叫マシンが大嫌いで、というかもはや食わず嫌いになってるから、実は乗ったら大したことないのかもしれないけど、少なくとも大嫌いだと思って生きた時間はそれなりに長い。

でも、好きになった人がジェットコースター大好きで、富士急ハイランドとかめっちゃ好きかもしれない。

っていったときに、別に無理して相手に合わせる必要なんてないんだけど。

でも、「相手は相手、自分は自分」っていう態度は、貫こうとするとどっか間違える気がしている。

なんだろう、「俺はもう、フジヤマどころか花やしきのローラーコースターさえ乗れないから」って言ってそっぽ向くときに、「はたして俺は本当に無理だからそっぽを向いているのか、たんに自分に固執しているだけなのか」って問いかけるのは悪いことではない気がする。

最初っから「俺のらないよ」って言うんじゃなく、入口ぎりぎりまで逡巡して並んで、最後の最後に足がすくんでやっぱり駄目でした、っていうんだったらそれなりに可愛げもあるというか。

「全部一緒じゃなくていい」っていうのは、「味見してみても、それでも無理なものもある」っていう意味なのであって、パッと見の印象で自分に訴えかけないものを無条件にシャットアウトしちゃうこととは全然ちがうんだ。

他人に対してオープンになったうえでの判断かどうかってところが全然違う。

 

まあまとまらなかったけどそんな感じです。

「わかるわかる」って慌てて言う必要もないけど、いきなり「それってどういうこと?」ってガツガツする必要もない。

焦んなくていいから、とりあえず「ひとまずやってみるか」くらいのスタンスで相手と一緒にいればいいんだと思いました。