世界のひみつにふれちゃうふれちゃう

あそぶんかの日でした。

 

これまでないってくらい久しぶりによく遊んだな。もう眠気しかない。面白いくらいねむいえいふぇありなkさえふぁf

っていうくらいには眠い。

 

主にドライブしてました。風呂にたくさん入りました。山道を冒険しました。すごくきれいな万年雪を遠くに見ながら立小便をしました。遠くの山を背景に自撮りをすると後ろがパネルか何かみたいになってしまって、自然の偉大さは自撮りなんてものを許さないんだなと思いました。嘘です。それは今思いつきました。でもああいうのはフレームに収めないで目に焼きつけるもんだな。

 

苛立ちとか不機嫌さというのは所詮感情なのであって、それに振り回されるようなことになってはいけないのだ、なるべく鎮めるように心がけるべし、ということを考えている人はいっぱいいるのかもしれない、と思いました。

結局人間だって感情の動物なんだから。邪魔しちゃいけないんでしょう。イライラしてるときに気を遣われたりするとかえってうっとうしかったりするのは、自分のペースで調整するしかないところをなんとか調整しようと頑張っているのに、変なものに介入されてそれが邪魔されるからなんだという気がします。ほっとくのが一番、それがやさしさ、ってあながち間違いでもない。良くも悪くも諦めて力の抜けた人は、自分がどうしようもない悪い波に飲まれたときも、じっと黙ってやり過ごすという手段で乗り切るということを知っている。だからそういうときはそっとしておくのがやさしさなのだ、というのは本当なんだろう。

 

感情、みたいなものに振り回される、生き物としての人間の悲しさ。

 

それに向き合いながら、謎を解き明かそうとしながら、他人を傷つけまいとする人間のやさしさの涙が出るようなきらめき。

 

ぽえみーである。笑

 

怒らない人なんていない、なんて昔の自分が聞いたら怒るだろうか?「お前だってそうやってむきになってるじゃん」って笑うこと、できないな。いや、笑いたくないけど笑ってしまいそうで悲しい。人間ってお前が思ってるほどきれいになりきれないし、かといってそれほど汚くってめちゃめちゃなもんでもないよ、すっごい中途半端だよ、って。伝えられたら、泣くだろうな。お前は未来の俺のくせして、俺の夢をぶちこわすの?って。俺に何ができるかな。

大好きな人を、そのままでは失ってしまうであろう、悲しいほど不安定で純粋で身勝手なかつての僕。でもそれを通り過ぎて今の僕はいる。将来、僕がもっと年を取って、かつての僕と同じくらいの歳の人たちと出会ったとき、僕に言えることは何だろう。気休めか、説教か。無言で、悲しい目をすること? ああ、人生はそこまでひどくないよ、なんて。伝わらないよ、伝わる気がしない。悲しいね、悲しいよ世界。

 

「別に、別に僕らただの生き物やおまへんか。そんなに大げさに考える必要もあらへんのと違いますか?」

 

難しいところです。