仕事が暇だから才能について考えていた

史上最高に仕事がはかどらない。というか仕事然とした仕事がないのが悪い。こういう日はさっさと帰るに限るだろう。

 

それはいいとして。

さっき思ったことには、何かやろうと思ったら、他人の圧倒的な才能なんてものからはなるべく身を引き離しておいてもいいということだ。

すぐれた作品にふれるべきでない、というのではない。それはまた別問題だ。人間的に嫌いな作者の作品だって、作者個人に重点をおいた見方をしない限り、そして自分が何かを吸収できる限り、良い作品にはいくらでもふれればいいと思う。そして、良い作品か悪い作品かというところについては、ある程度見ていれば見分けの基準なり自分の中の趣向なりといったものが出来てくるものだと思う。さらに言えば作品なんてものは所詮作品でしかないから、距離の置き方をこちらである程度選択できる(そんな余地さえ与えない作品も世の中にはあるのかもしれないが)。

 

問題は人だ。

 

すぐれた才能と、そいつの人格の良し悪しみたいなところは、たぶん全然比例しない。

才能の表れが人それぞれなように、人格もまた360度全方向どこにでも伸びうるから、自分と全く折り合いのつかない方向へとギンギンにとがったやつがものすごい才能をもっている、という例もままあるだろう。

しかし、才能が「才能」という言葉で雑にくくられるのとは違い、人格はくくりようがない。クソだとかあいつはいいやつだとかっていう評価はできても、実際に喋ってみたらそんなものは何の役にも立たないことがよくわかったりする。

そのくせ才能のほうは、なんやらよくわからないうちに目の前を通り過ぎて行ったあと、「ああ、才能だなあ」というような感想にもならない感想だけを残していったりするものである気がする。

よくよく見ると人の生き様と才能のありようは分かちがたく結びついているのかもしれないけれど、それは表面だけ見ると案外わかりにくかったりするのではないか。

 

好きな奴は好きな奴、馬の合わない奴は合わない奴、という割り切りが、往々にしてだんだんうまくなる。

しかし、そこに才能という付加価値がくっついてくると、割り切りきれずに卑屈になったり、妙なダメージを受けたりする。

それはつまらないことだと思う。なぜなら、そのダメージは、圧倒的な才能を前にして生じたものというより、その才能と持ち主の人格の交互作用で起こっているものだからだ。

才能それ自体は、もっとナチュラルで、切実で、ときどき優しい、いわば自然のものであって、単独で存在しているかぎりは、「なんかすげえなあ」という崇高さくらいしか伴わない、ずいぶんシンプルなものなんじゃないかと思う。

あたかも、夜明けのアルプスか何かのような。

 

簡単に言えば、大事にできる付き合いを大事にして、自分を不必要に傷つける相手とは無理に近づこうとする必要はない、ということに落ち着いていくのだろう。

刺激を得る、といったところで、ハンマーで自分を殴って壊したら仕方ないではないか。

まずは自分のペースで自分を鍛えて、充分な力を蓄えたら、ハンマーにでもなんでも立ち向かえばいい。人生そんなに時間はないけど、そんなスタンスでやれば別にいいんじゃないかと、めちゃくちゃ歌がうまいけどあんまり仲がいいわけではない後輩のTwitterを眺めていて思いましたとさ。