大胆な仮説

言うほど大胆でもないかもしれないが、小説を書くとき、特に純文学的な理念のもとで何かを書くときには、資料集めだの下調べだの、といったことはしないほうがいいんじゃないか。

結局、表現しなくてはいけないことは、すでに自分の中にあるのだ。
それを表現するために切実な必要があるならいざ知らず、「現実はこうだから〜」という指摘に対して身構えたり、守りに入るために「下調べ」をするくらいなら、そんなことはしないほうがマシな気もする。
その知識が自分の思いを支えて構成している、くらいのレベルにまで定着していないのであれば、そんなものは使わないほうがいい、と思う。

歴史小説とかにしてもそうだと思う。
本当に優れた歴史小説の書き手は、歴史の中に物事の真実を見たという思いがあるから、歴史を題材にして物を書いているのであって、決して格好つけや自己弁護のために歴史を利用しているのではない、と思う。
「調べもしないで小説を書くのは愚かだ」と言うけれど、調べる調べない以前のものを欠いていたら、いくら知識を増やしたところでそんなのは本末転倒なのではないか。

学術的営為にしても、実は本当はそういうところがあるのではないか、とも考えたが、憶測にすぎないので突っ込んでは書かずにおく。

題材に振り回されるのはいかん、というのは以前からある思いだけれど、今日のはそんな思いについての話。