頭使えよ

物を考えないようにしているな、と最近気づきました。

前はもっとくよくよ悩んでましたよね、自分。
Twitterとかやかましかったと思います。
でも最近どうでしょう、そこそこ静かなんじゃないでしょうか。

深く考える前に、頭が避けてしまう感じがすごいのです。

くよくよするのはどんなことでもそうで、たとえば誰かのたった一言がグサっときただけでもそのことについてずっと考えていたりした。
でもそれが最近ないのです。
なんとなくかわしてしまう。

人に会いにいく道すがら、信号のない横断歩道をぼんやり自転車で渡っていたら、運転の荒い車から怒鳴られました。
バッカみてえ、と一分も経たないうちに忘れてしまった。
考えるほうがアホくさく思えたのです。自然と。

考える考えない、というのは能動的な話では全くなくて、頭にスイッチがはいるかどうかの問題でしかない、と俺は思っています。
そして最近そのスイッチの入りがすごくにぶくなりました。
ちょっとまずいのかなあ、と思いつつどうしようもできない。それもまずいのかもしれない。

ある意味で気は楽です。
でも、これでいいのかなあ、と思ってしまう。

じゃあこのウジウジした文章はなんなんだよ、と言われるとちょっと困ってしまうのですが。
頭使われてないなあ、と思って不安になったから、とりあえずそのことについて書こうと思った、くらいのものなのは確かです。
それが無理やりで能動的なものなのか、自然な思考の帰結なのかはよく分かってない。

うーん。

話変わりますけど、最近の自分は「なるべく何であれ『そういうもの』として受け止める」という構えで過ごしているな、とふと思いました。
理解できる範囲だけ理解して、理解できないところはそれはそれでいいとしておく、という態度です。
徹底はされていないのですが、だいぶそういう心持ちが強いです。
(徹底できていないのはやはりどこか臆病だからでしょう。理解できないものからの暴力は怖い。)

それはそれで悪くないかな、とは思うのですが、ちょっと「理解したい」という欲が後景に退きすぎているまずさを感じます。
理解できるものだけに心を開いた排他的な人間にはなりたくないので。
そういう人は人をうまく愛せなさそうではないですか。

「なんでもとりあえず受け入れてみる」と言うだけ言い、目の前を過ぎ去る事物を眺めているだけだと、どうも自分の無意識とか弱い部分にひきずりこまれそうで怖いのです。

悩みすぎて世界や他人と折り合いがつかなくなるのも、愛のない苦しい話だな、とは思うのですが、悩まなさすぎて独善に落ちていくのも同じくらいよくない気がしています。