東武アーバンパークライン()にて
改めてバイト先の遠さがバカ。
往復3時間超えてるってどういうことですかね。
その差分の時間をうまく使えるかっていったらそれは別問題なんだろうけど。
面白い話を親父が聞かせてくれた。
そもそも俺のいまのバイト先は、親父が勤めている派遣会社に斡旋してもらった。
だから面接も親父とやった(この時点で面白すぎるんだけど)んだけど、そのとき適性試験みたいなものを受けさせられた。
そのときの結果のひとつに、「同じことを集中して反復する能力:20点」というのがあったのだという。
もちろん100点満点の20点。
爆笑した。
淡々と同じことを続けるのが苦手らしい。
自分では今までそんなつもり全くなかった。
でも、確かにいまのバイトは単純作業が多くて、一日が終わるたびにぐったりしていることを思い起こすと、「大当たりしてんじゃねえか」と感心せざるを得なかった。
思い込みは当てにならないなあ、もっと結果から原因をたどる見方をしなきゃかな、とつくづく思う。
3時間あったからって、3時間ぶんきちんと何かを積み上げられるわけじゃないな、俺。
そういう意味では編集者って合ってるのかもかもしれない。
多情な人間のほうが務まるのかも。
自分としては一途な人間でありたいと願っているんだけどな…
ちゃんと勉強とかして、迷妄からフリーになりたい、という気持ちは確かにあるけど、案外ないものねだりなのかもしれない。
いろんなルートが用意されていて、俺のすすむ道もちゃんとまっとうなゴールに続いていたらいいな。
昨日、8月の1ヶ月だけ受け持った生徒に、「俺の授業ってどうだった?」と聞いてみた。
そしたら、
「ノリがほんとよくて、面白かったです!」
とのご回答をいただいた。
笑った。
授業としてちゃんと成立してたなら別にそれはそれでいいんだけどね。
やっぱり自分を周りに合わせる生き方がなじんでるんだなあ、とつくづく思った。
自己評価としては、それって退屈きわまる生き方だよね、というところなんだけど、もうそういう生き方が自分ですら分からないくらい深く深くなじんでしまっているから、どうしようもない。
あとはもう、「俺ってどうもそうらしいな」と受け入れていくしかないんだろう。
たぶん俺の人生の自然なあり方は、俺以外の誰かの人生の媒介になることだ。
信号を発するより、誰かの信号をキャッチすること。
それがちっぽけに思えるのは、たぶん、人間なんてどうやったってちっぽけだ、と頭で思っていても思いきれないところがあるからかな。
それと、役目をまっとうした人間の価値なんて、どのみち同じようなものだ、とも。
思いきれないなあ。
優れた作家の文章も、まとめあげて発信する人がいないと残っていかない。
誰かの名前入りで出た本だからといって、その人だけの力で生まれたと言い切ることはできない。
それは本以外のものについても言えることで、色んなところできちんと役目を果たした人がいるからこそ、どんなものもこの世に生まれ残っていくわけだろう。
でも、そのなかで目立つ人と目立たない人がいるのは事実なわけで。
各々の役割のそれぞれの真価はさておき、表にあらわれる価値はやっぱり変わってくる。
地味な裏方でいることも、表舞台に出ることも、しょせんちっぽけで、だけどそれぞれ価値がある。
そんなきれいごとを肚の中に飲みこめたら、また世界の見え方は変わってくるのでしょうかね。
p.s.
それでもきれいな文章を書きたいなあ、なんとか。