耳をふさいでるのはその指

自覚がなかったけれど、ぼく実は連絡不精だったようです。
そういうとこもあるみたいです。

まあこういう話ってよくあるように二項対立で語れないもので、二極をむすんだ線の上のどこかの点をとる、みたいなものだと思いますが。
「連絡とりすぎ」
「ややとる」
「あまりとらない」
「ほぼとらない」
みたいなね。

中学くらいのときは、アホみたいにメールのやりとりしてたなあ。
一日に何時間も。
そんなに話すことなんてあっただろうか?
少なくとも、話すことへのためらいは今よりなかったのかな。

考えてみると本当に不思議だ。

昔のほうが、他人への興味にとめどがなかったんだろうか?
確かに今は、人の話を聞き続けているのが少ししんどくはある。
自分を守らなきゃいけないからかな。
あるいは他人への興味が薄れたのか。

「どうでもいい話」が苦痛になりつつあるかもしれない。
退屈してるかもしれない。
退屈されるのが怖い、とか臆病ぶった仮面を被っては。

面と向かった会話じゃなきゃ伝わんないよ、なんて、実は嘘かもしれない。
中身だけなら文のやりとりで十分なのかも。
顔の表情、声の抑揚、体の近さ。
演出としてそれらが働くのはそうだけど、なによりそれらがもたらす緊張の快楽をこそ、僕らは求めているのかもしれない。

話を聞きたい、なんて言わなくたって、言葉はちゃんと転がってるんだよね。
めんどくさがって、夢だけ見てたら、頭に入るものも入らなくなるけど。

ほんとはめんどくさがりな自分を、ときどききちんと叱ってやらねば。