20代のうちはずっとこんな感じなのかなあ

怖くて書けない日々が続いてうんざりしてます。

 

『重力の都』(中上健次)を久々に読みました。

やっぱり導入部が最高だった。

文章としてはこの上なく読みづらい。ふつう区切るところで全然区切らないし、会話を一か所を除いてぜんぶ地の文で書いちゃうし(逆に一か所だけカギカッコで括ったのはなんでだったんだろう……よく分からない)。でもその読みづらさを逆手に取るというか、むしろその読みづらさに引き寄せられる。

 

とまあ、ちょっと書いてみてから「ああもう、説明できないな、あの良さ!」となる。

 

ねえ、説明できないと自信なくなりません?

「どうしてこれが良いのか」。

で、うっかりして感想とかレビューとか調べちゃうじゃないですか。

批評めいた文章とか、ネットにごろごろ転がってるわけね。

ときどき批判めいたことなんかも書いてあったりして。

 

俺、この作品好きだけど、それで合ってるのかな?

なんて怖くなる。

 

読んでるときだって始終どこかでびびってますからね。

なんで良いと感じたのか。そもそもちゃんと読めてるのか。

カッコつけで純文学でも読んだろか、と思ったときの気持ちの名残とか、単純接触効果とか、そんなので好きになってるだけなんじゃないの、とか。

 

まあ無益な悩みですわ。

それで片付けちゃったらそこで全部終わるからね。

 

好きなものは好き、良いものは良い。

その前提から初めて、じゃあなんでそれが良いんだろう、好きなんだろう、と説明するところまで切り込んじゃっていいんじゃないの?

小難しい批評とかにびびって心折られる前に、地に足つけて自分の好きなものについて考えるとこから始めたらいいんだ。

先人の遺してくれた考え方とかものの見方はそのために使えばいい。

 

……と言い聞かせつつ。

 

***

 

『重力の都』にかんしては、やっぱり「短編だから」って分かってるとこと「『春琴抄』のオマージュである以上作品としての着地点は見えている」というところで安心ができるんだと思う。

だからしっちゃかめっちゃかな文体でもある程度苦痛になれずに読める。

 

ほんとに、何度も読み返さないと一文一文先に進んでいけないのです。

わざとそうしてるんじゃないかっていう文体なのね。

「一冬、女と一緒にすごして海岸線では想像もつかない雪やみぞれの消える春になってから飯場にもどってもよいと由明は思い、女が黙り込んだ由明の気持ちを察してバケツの中に入れていた洗濯物を竿に干すのを見つめた。」

一読しただけじゃ、まず頭に入ってこない。

あえて打つべき部分に読点を打たなかったり、「春」の修飾部をめちゃくちゃに長くしたり、二文に分けてもよさそうなところを分けなかったり、主語と述語の関係を見えづらくしたり、そんなことをやってるわけです。

ていうかそんなことばっかりやってるわけです。

 

話も結構しっちゃかめっちゃか。

霊的なものが見える美しい女と、山の工事現場から降りてきた男(由明)がひたすら寝る話。

女は霊的なものへの感受性が強くて、山の向こうに眠るといわれる昔の貴人に、毎晩夜這いのようなことをされている。

体も腐りきった貴人の苦痛は、夜になるとたえず女に共鳴して女を苦しめる。

由明はその傍観者みたいな形で女とひたすら交わるわけですが、だんだん貴人と重なる(幽体離脱の逆ver.みたいな)ような部分も出てくるんですね。

最終的には、女が両目を針でついて失明して終わるんですが、まあしっちゃかめっちゃかです。

 

しっちゃかめっちゃかなんだけど、どこか整合的にも感じられる。

不思議な話です。

「女」という中心に、時間さえ超えて男が収斂していく感じというのは、どこか納得がいく話でもあります。

いつだって男は女よりバカなんだ、みたいな話は、笑えるようでもっと深いのかもしれないな、と思わせる。

神様や霊的なものが見えるという女の性質と、性の交わりの快楽が、ぴたっと重なり合ってしまうのも、なんだか不思議なようでぞくぞくしますし。

 

前に平等院鳳凰堂阿弥陀仏の像を見たとき、「来世もし女の子に生まれたら、仏さまに抱かれてみたいかも」と本気で思ったことがありました。

永遠の快楽にたゆたっていられそうなイメージがふっと頭によぎったのです。

「永遠」と「性」はどこかでわかちがたく結びついているのかもしれない。

そんなことも思い出されます。

 

『重力の都』は昔ばなしっぽい短編です。

時代設定も、たぶんそんなに古くないです。

由明はダムの工事現場で働いてるわけですし、買い物を繁華街でする描写もちょっとだけありますし。

ただ、そういう現代っぽさを感じさせる描写はきわめて少ないです。

女の家に由明は寝泊りするわけですが、女の家の前は荒れた畑で、女曰く「神が降りてくる」欅の木が一本生えているだけです。

家にも現代を思わせるものはほとんどありません。かまどで煮炊きしてるし。

意図的に排除されてるのかもしれませんが、そういう現代っぽさのないところがすごく昔話っぽさにつながっています。

 

この「昔話感」が、僕は個人的にすごく好きです。

ある時代のある場所での話、というふうに読める話よりも、早く先へ先へ読ませようとする力が強く感じられる気がする。

いろんな前提を抜きにできる分、余計なことを考えずに話に没入していけるのかもしれません。

 

ラストシーンも秀逸というか、読んだときにぞくっとさせられます。

女が目をつぶしたのち、由明と女が朝寝をしているシーン。

「……女が身を動かすと痛みがひどくなると分かっているのにたまらないと思い女の体を横にむけて後から入れた。体を動かすたびに女は眠ったまま痛みに呻き、そのうちはっきりと愉悦のそれとわかる声になり、由明がその声に煽られるといつの間に眼覚めたのか女はゆっくりと続けて欲しいと言った。由明が俺もそうだがおまえもつくづく好きものだとつぶやくと、女は外に雪が降りはじめたと背中にひびく声で言う。女の盲いた目に眩ゆく輝きながら落ちて来て何もかも白く埋めてしまう雪がはっきり見え、由明は女の声を耳にして雪の中に一人素裸で立っているような気がして身震いした。」

まさに身震いものだと思います。

実際に雪が降っていると明示されているわけではない場面だと思うのですが、目を失った女が放った「雪が降ってきた」という一言には、何もかもを見通しているような静かで重い響きがある。

ほんとうに後ろを向いたら、しんしんと雪が降り出しているのではないかと思わせてくれます。

女を中心とした広い雪の降る荒野に、男はただ一人取り残されるのだ、という直観とともに。

女だけが静かに世界とつながって、男はその上に不安げに立つしかない、というようなイメージがなんとなく浮かんでくるんですね。

 

こんがらがりそうな文体と古い神話を思わせるような話が、絶妙に絡まりあっていて、本当にひきずりこまれていってしまう。

何度も読み返す小説ってそうそうないんですが、これに限っては何度も読み返してはうならされています。

 

***

 

とまあ、読書感想文でした。

 

読書感想文が嫌いって人がよくいる。

感想なんてないよ、良かったかそうじゃなかったか、それだけだ、みたいな。

 

俺は、読書感想文って好きでも嫌いでもないんですね。

感想文の延長に批評とかがあるって素朴に思ってるから。

でも、批評にしたって意味があるのかないのかよくわからないし、「面倒だからそういうのいいよ」と心から思ってる人からすれば、結局批評にしたって「嫌いだ」になるのかもしれない。

 

たしかに批評はなあ、ちょっとしんどいとこあるなあ。

やっぱり「優れた批評とそうでない批評」があるとされている以上、レースにのっかって競争していくのはきつい。

競争する以上は勝ちたくなっちゃうだろうし、でも勝てなくて自分が嫌になるだろうし。

勝てなくたって別に自分のペースで走るからいいんだ、といって夢中で走れるのはいつになるだろう。

というか、それがいいとばっかり思ってるけど、本当にそれが正しい境地なのかもよくわからない。

自己啓発の時代』っていう面白そうな本があるから絶対読んでみようと思ってるんだけど、もうそこで書かれてる「自分探しの時代が終わって、自分磨きの時代に入りつつある今~」みたいな話がわかりすぎてつらかった。

自分が過ごしている今この地点はゆらがない。

だから、いかにこの場所で、より快適に生きていけるかを考えるしかない。

そのために自分を磨きましょう。

そういう思想に導かれて自己啓発がはやってるんだ、っていう話だったけど、あれ俺もおんなじような発想で生きてるじゃん、結局時代のせいかよこれ、って思わされたわけね。

ていうか人はみんな「時代のせい」にしばられながら生まれては泡と消えていくものなんじゃ、そうすると今ぼくが頑張ってるつもりのこれって結局最後には泡と消えるものにすぎないんですかね、って思ったら一瞬絶望しかけましたわ。

考えてるつもりが時代のせいかよ。俺よりもやっぱり時代が先立つのかよ。みたいな。

 

はあーだらだらしてるな。

 

***

 

長い本を読むのも昔よりしんどくなりました。

長編小説がまあ読み切れないったら。

買うだけ買ってるのにそれはないぜ。

 

マジで自信を失いますね。

裏返しのように小説も書けないったらもう。

筆がノったノったと思って、さあ明日も続き書くぞー!って思って三日もたったら飽きてやんの。

この話面白いの?ていうか何が書きたいんだったっけわかんないんですけど?

ってなる。

いっそ勢いで短いものを書きまくったほうが完成した作品の数はかせげるかもしれないね。

「何か完成させた」って感覚は意外と大事だ。

でないと死んでしまう。世界に一つ形を残せた、と思えるのはそれだけで結構大事。

 

***

 

あーちょっとすっきりした。

なんだろ、でも『重力の都』の感想書いてたときの感覚と、垂れ流しを書きなぐってるときの感覚、明らかに全然違うぞ。

やっぱり何かに切り込んでいくときのほうが緊張感あるんだな。

 

一日でがぁぁぁっとどこまで書けるかやる、みたいなスタンスもありかもしれないな。