もしかしてもしかして

詩でも書いてみようかと思います。

小説が書けないからという単純な理由です。
書けるタイミングで小説も書きます。
が、積極的に詩も書いてみようかなという気になっています。

今、あだち充の『H2』を読んでいて、心の中でかれこれ100回は「最高かよ!」と叫んでいます。
王道をいく(だと僕には映る)マンガのレトリックを実に効果的に使って、ストーリーの良さを何倍にも増幅させている。

中でもとりわけ印象に残って離れない場面が一つあります。
ヒロインの一人(と言っていいのかな?)が二人の主人公(と言っていいのかな?)の間でゆれているところを描写したシーンなのですが、とにかくセリフといいコマの使い方といい全てがいい。
作品の紹介をしたいわけじゃないので細かい話は割愛しますが、5巻のワンシーンだということだけ、とりあえず。

で、何が言いたいかというと、そのシーンを読んだ瞬間「あ、小説はまだ俺書けないかもしれない」と思ったのです。

優れた作品は、描かれた対象をものすごくオーラのあるものとして映し出します。
件のシーンの場合、ヒロインの揺れる心がその対象になりますね。
伴うオーラがどこに由来するのか……対象そのものなのか、レトリックの増幅作用なのか、それはちょっとすぐ思いつきませんが、いずれにせよ優れた描写は対象にオーラを与えるといえるでしょう。

となれば優れた描写のために作者に求められるものは何か。
それは描きたいものにきちんと「対象」として向き合うことであり、その「対象」が持つにふさわしいオーラをきちんと付与してやれる力ではないでしょうか。

僕はたぶん、その過程で押しつぶされてしまう気がする。
あるいは今も、押しつぶされるのを避けたくて、通りたいと頭では思っている道を、知らず知らず通らないようにしているのかもしれない。

たとえば、おおざっぱに言えば、「三角関係」なんて俺には書けるわけないんです。
絶対誰かが傷つくもので、「そんなもの認めたくない」と思っているから。
「三角関係はありふれたものだし、そうなったら誰かが傷つくのは当たり前だ」と思いきれたら、それは描写可能な対象になると思います。
自分と切り離せるもの、とは言わずとも、距離を置いた見方ができるもの、でなければ、多分その形を描くことはできないんじゃないか。

当座のところ、何かを自分と距離あるものとして「対象化」して描くことはできない気がする。
三角関係なんて、ある意味すごく書きたい主題なんです。
恋愛の業みたいなところを超えた先で、人と人が思わぬ形で通じ合うような物語を書けたら、なんて思うわけです(じゃあ厳密にはそれ「三角関係を書きたいわけじゃないじゃん」ってなるわけですが)。
でも、そのときに必要な「三角関係を存在として認めてやる」というプロセスが、ちょっと出来そうにない以上、俺には到底書けないんじゃなかろうか。

同じような感じで、「書きたいけど書けそうにない」ものは、多分俺の中でゴロゴロしてるんですよね。

だから、無理して書けない小説を書こうと力むのは、やめることにしました。
書けるときには書くけどね。
んで、代わりに詩を書きます。
俺の中での詩の位置づけは「自分と、自分から切り離せないものを言葉にすること」なので。
当分はこっちのほうが営みとしてしっくりくる気がする。

そんなわけで、肩の力を抜くぞ!という宣言でした。
小説諦めたわけじゃないよ!