俺だって怒るよ
少し飲み歩くのを控えようと思う。
別にそれは行きつけの店にしばしばやってくるおっさんの説教がいい加減鬱陶しくなったからでも、常連の人たちに嫌気がさしたからでもなく(まあ……嫌気になる前に焼却して意識の底に沈めてる感情は多分ある、ものの)。
多少、常連客になったことで甘えが出てきたからというのは大きいかもしれない。
甘えることで、なんだかひどく失礼なことをしているような気がするし、自分のなかの澱みを濃く深くしてしまっている気もする。
良くしてくれる人の、良くしてくれる部分に、甘えすぎるのは違うんだ。
それは自分の弱さが許されているということにはならない。
常連客になって、固定化された関係をお店の人たちとの間に築いて、その関係性の底に、妨げになるものを沈めて見て見ぬふりをしているというだけなんだ。
なんとなく、澱が濃くなって、深くなってきたような感じがある。
ちょっと自分と向き合う時間が必要かもしれない。
贅沢な読書の時間を持つこと。
自分の弱さを責めるポーズで解決した気にならないこと。
ちょっとずつ何かを積み上げること。
歴史に説教してもらいたいところだ。
自分の切実さを本当の意味で相対化してもらいたい。
うじうじ悩むポーズに価値があるかないかを判断する前に、色んなところに生まれた色んな人たちの生き様にふれたい。
人の話は聞きたくない。
主観で語られた言葉に耳を傾けるのは少し疲れた。
客観性を、実証性を目指して記述された人の生き方と考え方にふれたい。
「思想・文学をやっている人間こそ、歴史にふれるべきだ。逆も然り」
と誰かがTwitterで言っていたっけ。
しのごの言うより前に、そうしたいと思った。
仕事で歴史モノにふれている影響もあるかもしれない。
理由づけはどうあれ、語り合いふれあうやりとりからこぼれ落ちたもの、をごまかし続けるわけにはいかないな。
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俺だって本当はどこかで色んなことに怒っているし不満に思っている。
箱に入れて「要検討」の札を貼って押し込めておきがちなだけで。
いろんな人がそこに無意識のうちに甘えている。
意図的かつ能動的に、ではないと思うけれど。
俺がゴミ箱のような顔をしているから、うまく捨てられなかったゴミをみんな捨てていくんだ、というような話だ。
ような話なんだけど、実態はもうちょっと中立性が強い気もする。
俺はゴミ箱でいるのも悪くないかなというつもりでプラスマイナスちょっとプラス、くらいのところにとどまった結果としてゴミ箱然としているし。
ゴミを捨てる人も、「ああ、ここにゴミ箱あった、ありがたいありがたい」と思っているだろうから。
疲れてんならやめれば?みたいな単純な話じゃないのだ。
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甘えるな。甘やかすな。なんでもいいから、発展と改善の余地はきちんと残しておけ。
ほんとはよくない「まあいいや」を減らす方向は、ちゃんと見えるようにしておかないと。