変態でいいよもう

パソコンがお亡くなりになって(自動修復ができない、という状態から抜けられなくなった)、書いていた小説が吹き飛んではや2時間。
死にたさ。
執筆していたのも実質昨日の2時間くらいにすぎないんだけれど、それでもノリにのっていた書き出せていたから悲しみが止まらない。

自分が書き残したものが消えるのって、どんなに大した文章じゃなくても、かけた時間がどんなに短くても、こんなに悲しいんですね。
mixiの日記とか書いてたときに途中でバックスペースキー押しちゃって泣きそうになったこととか思い出しました。
かけた時間が長くなればなっただけ、一応そこに希望が詰まっていればいるだけ、やっぱりつらくなるんだなあ。

書いたものをなるべく確実に残しておく手段は、常日頃からきちんと考えておかなくてはなあ。

ということでDropboxみたいなオンラインストレージをもっと有効に活用することにしました。
といっても、Dropboxにも90日ログインしないとデータ消されるルールがあるらしくて今から不安が消えませんが。

それから、スマホBluetoothキーボードでも作業環境としてそれなりになるように、ちょっといい有料のテキストエディタアプリをダウンロードしました。
パソコン同様iPhoneだっていつ吹っ飛んでもおかしくないものだから不安ではあるんだけども。

ですが、だけども、ばっかりになっちゃいますね。
やっぱりほんとはどこかでネットとか電子機器は不安です。いつどんなタイミングでダメになっちゃうかわからない。
だからって紙媒体至上主義を盲目に貫こうとするのもバカバカしい話だとは思うんだけどね。
いつどんなタイミングで蓄積していたものが吹き飛ぶか、というのは結局のところ可能性の問題で、アパートが燃えたとか地震が起きたとか、そういうことで失われる可能性はいくらでもありうる。
物質性が安心を与えてくれるって意味では紙はやっぱりいいものかもしれないけれど、テクノロジーをちゃんと使いこなせれば電子媒体のほうがよっぽど安全という部分もあるだろうし。
それこそ、物質じゃないからこそ残る
っていう場面もあるよね。紙は燃えてもデータは燃えない。

それじゃあデータの扱い方お勉強しようって話なんだけど、どうにも面倒くさがってしまっていけないな。
ネットで調べると情報に溺れちゃってうまく選べないから、やっぱり他の人から直接「こんなふうにしてるよー」っていう教わり方をして学びたい。
そういう意味でも、同士みたいな人とのつながりというか、情報共有はできていたほうがなにかと便利なんだろうな。
「面倒くさがらずに自分で調べることもできないの?」って白目剥かれそうな気もするけど、しょうがないじゃんね。「私はこれが一番便利!」みたいなブログが10個も20個も並んでると、結局どれが一番いいのか選ぶのってすごく億劫になっちゃう。
色々試すこと自体が好きで、という人にはいいのかもしれないけど、アプリとかソフトウェアでそういうことをする気に自分はなかなかなれません。
平成人なのにですよ。悪いか!

とりあえずDropboxの自動ログインはきちんと設定しておこうと思います。

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今さっきパソコンもろとも色々なものが死んだせいで心が立ち止まって血の涙を流していたわけですが、最近は良かれ悪しかれ立ち止まらないことを心がけながら過ごしていました。

僕は結局のところ欲望みたいなものを抜きにしては何も考えられないと最近強く思っている。
哲学も思想も、突き詰めしむるのは結局のところその人の抜き差しならざる衝動なんじゃないか、って思うわけですね。
サルトルボーヴォワールの伝記的な映画を最近観たけれど、要するにあの二人って変態ですよね。
性に奔放でいずにはおれない。
そういう側面とか実生活における諸々の信念を抜きにして、彼らの思想とか哲学って多分語れないわけじゃないですか。
「何が正しいか」の検討においては、もちろん論理とかなにがしか客観的とされる基準を参照して考えなきゃいけない……でなきゃ自分の嗜好と志向が導く極端にしか行き着かないわけだから、「それでも何か良いものを目指すんだ」みたいな働きが失われてしまう。
だけど、自分にとって抜き差しならない問題を選ばしめるのはまず自分自身の一番深い根にあるものに他ならないじゃないですか。
そこを基にして展開された思想的なものが修正を被るとしたら、それはやっぱり自分にとって決定的にクリティカルな指摘なり批判なりからスタートせざるをえない。
少なくとも個人のレベルでは、そういうふうにしか物事は展開しようがないはずじゃないか。
(集団とか社会みたいなレベルになると話は変わってくるだろうけど。個々人の思想や持論がぶつかり合うことで磨かれていって、その磨かれたものの総合こそが世界をより豊かにするんだ、みたいな話は全然あると思う。だけど個人レベルの思想を「絶対的な一つの良さに向かって展開していく」みたいな過程として考えるのは無理なんじゃないだろうか)

だから僕は自分を掘り下げてためになるたけ自分の欲望に耳を傾けてみようと決めたんです。

欲望ったってそう簡単な話じゃない。
別においしいものをたくさん食べようとか、きれいな女の人となるべくセックスをしようとか、そういう「すでにお手本が与えられた」欲望の話をしているわけじゃない。
それは言ってみれば僕の内面の声に耳を傾けること。
閉じ込めておくとぐちゃぐちゃになって腐ってしまうエネルギーの絶えざるうねりを、きちんと外に出してやること。
たとえば「なんか今は歴史を勉強したい!そのほうがはかどる気がする!」と思ったらとりあえずきのおもむくまま本を買って読んでみるとか。
「ムカつく奴にはちゃんとムカつくって思ったほうがいいな」とか。
「一人でいるとダメだ!今日は外に出よう」とか。
「何も読みたくないし見たくない……文章書こう」とか。
「同じようなことを考えてる人と会ってみたいな、どこかに飛び込んだらそういう人に会えたりしないかな」とか。
実現するにはちょっとエネルギーの消費と疲労を伴うものから、そうじゃないものまで、なるべく自分の惹かれたほうにはえいっと足を出してみるという、そういう話です。
その結果、何かを好きになったり嫌いになったり、間違ってると思えたりこれが正しさであってほしいと思ったりする物事を目にしたりして、自分の中の衝動を具体化していく。あるいは、具体化するための準備をしていく。

こうやって過ごしていることに意味があるかなんてよくわかんないです。
でも何も形にできないで死んだらそれもそれで無意味だ。
どっちをとっても意味がないなら、「いずれ意味が出てくるかもしれない」ほうの道を僕はとります。

昔の僕は怒るだろうか。
そんなふうに奔放に過ごしてどこに行けるのだと。

でも僕は昔の僕に言う。
お前だって、結果的に悲しい結末を迎えたりもしたけど、つまりは奔放に、自分が良いと思いたいようにやっていたんじゃないか、と。
「ひたすら立ち止まる」という選択だって、そうしたいからそうしていたんじゃないか。
そこに信念があったから、そうしていたんじゃないか、と。

あの日の僕が持っていた信仰を打ち砕かれた今、僕は新たに信じるに値するものが見つかるかどうかを試みるために、また歩いていく。

だからパソコンが壊れたりして、流れを容赦なく押し止められると、なんだか悲しくなっちゃうわけです。
立ち止まったときに僕を苛む無気力とやりあうには、まだまだ「意味」の匂いすら感じ取られていないんだもの。