コミュニケーション
元気にはしゃいできたら疲れました。爆音で耳鳴りが止まないのなんの。
でも余計なこと吹っ飛ばせるっていいね。
遊んで帰るとき、コミュニケーションについて考えながら歩きました。
外国の人と話そうと思ったら、その国の言葉を知らないといけない。
イギリスなら英語、ドイツならドイツ語。
国じゃなくても、地方でも。
東北の奥のご老人なら津軽弁etc.。沖縄ならウチナーの言葉。
もっと小さいコミュニティでも、あるいは。
オタク同士の会話はオタクの言語で成り立っている。
ナンパはする側とされる側の想定している暗黙のコミュニケーションを守って初めて成り立つ。
バーではそれなりの紳士淑女的な態度をとらないと相手にされないどころか店を追い出されたりもする。
言葉と振る舞いのゆるやかなネットワークが、あらゆるところに存在している。
そのネットワークのうえをタイムラグなく滑り抜けていける人が、そのコミュニティで何かを獲得していくことができる。
お金とか異性とか。
ただ、それだけが全てではないのも確かだ。
ネットワークは絶えず変動する。
取り込まれる要素、吐き捨てられる要素があって、それらが絶えず入れ替わっていく。
「流行り廃り」と言い換えてもいい。
Twitterの上で用いられる語りのスタイルを考えてみればわかると思うが、はやりの型というのがある。
それは不変ではない。
実際のところ、ネットワークをきちんと内面化できていないと、何を捨て何を取り入れるかを適切に判断することはできない。
あるいは、主導的な人物が選び取ったものが規範となってコミュニティ全体に広がるのかもしれない。
全体主義の社会がいい例か。
「自分を演じる」というのは「一切の自分を捨ててコミュニティの声に身を委ねる」ことに他ならないのだろう。
『渇き。』の藤島加奈子がカリスマとして振舞うのは、一つには最初から「捨てるべき自分すら持たない」からだろう。
急用ができたので今日はここまで!