つよがり

不完全な言動を撒き散らして、生傷みたいな寂しさや孤独をいつまでもほじくりかえす。
そうやって自分も痛み他人にも見向きもされないくらいなら、粘り強く何かを生み出すほうに賭けたほうがいい。
……わずかながら、そんなふうに考えるようになりました。

そりゃ寂しくてたまらなくなることはいくらだってあります。
散歩をしたって、タフになろうと心がけたって、公正に物事を眺めようとしたって、目の前のことに集中しようとしたって。
それさえままならないくらい気が散ることはいくらだって。

昔のことや遠くにいる人のことを思い出して、恋しく思うこともあります。

そういうのってこれからも無くならないんでしょう。

そう、無くなる保証も無くならない保証もないんです。
……だったら、ちょっとでも元気を出して、元気の出るようなものを作ることに力を注ぎたい。
10年先、100年先、500年先に何かいいことがあるように願いながら、ものを作るほうに賭けたい。
少しずつそう思うようになりました。

ものを作っているときにはその意味なんて考えない。
意味の有無なんてわからないから。
気分次第で、きっと意味があると思うときもあれば、意味なんて全然ないんだと思うときもある。
気分や天気に左右されて思い方は変わってしまうし、真実が底にあるんだとしても、僕の今の目にはそれは見えない。
だから、ものを作っているそのときには、そういう問いは括弧に入れてしまいます。

……それは、意味の有無を見つけようとすることを放棄するのとは違います。
繰り返しますが、作っているときは作ることに集中しないと手が止まり思考が凝ってしまうんです。
「意味はあるんだろうか」はだいたい「意味がないんじゃないか」に流れていくわけで……。
だから、意味を考えるのは、作っているものから離れたときにやります。
たとえば散歩をしているときや、雨を見ながらコーヒーを飲むときに。

***

思っていたことの半分も、本当は伝わっていなかったんだろうな、とようやく思い至りました。

バラバラになりそうなくらい寂しい気持ちとか、世界の誰からも見捨てられたような気持ちとか、感じることがしょっちゅうありました。

そういうときは、だいたい何も考えられなくなるし、眠ることさえままならなくなります。
本さえ読めないし何をする気も起こらなくなるのです。
胃の塞がるような重い気持ちが、頭の全領域をしばりつけて、手足さえ動かないようにしてしまう。

そんなとき、鎮まってくれ、鎮まらなくちゃだめなんだと思いながら抱え込むしかできなかった。

僕は、抱え込むことが「頑張る」ことだと思っていました。
しっかり抱えて向き合うことが、寂しさや弱さを根こそぎ無くし去ることにつながるはずだと。
だから、抱え込み堂々巡りをすることは、迷走的ではありましたが、ある意味では僕なりの努力でした。

ずいぶん人を困らせたと思います。
謝りたい人の顔も浮かびます。

今更だけど……寂しさに負けないように心がけながら、とりあえず何か残せるように、誰かと笑えるように、どこかしらの方角を向いた日々を送りたい。
これまでは内向きに過ぎました。
そのせいでいろんなものが見えなかった。
人の善意とか、弱さとか。

わがままを一つ言うとすれば、そんな迷走が悪だったとは言いたくない、ということ。
寂しさを深め続けていればいつか諦めがつくかもしれない、あるいは寂しさも根こそぎ無くせるかもしれない、なんて。
一面からすれば愚かでしょう。
実際のところ、何かを生むこともなかったです。
でも本気で生きてはいました。

そのことは……いちばん僕自身がよく知っているとも言えるし、僕しか知らないとも言える気がする。
(そういうことを分かち合える数少ない友達を、僕は大事にできればと願っています……当たり散らしたり塞ぎ込んだり独り善がりを見せびらかしたり、散々迷惑もかけたけど。)

「弱い自分だったけど本気だったんだから仕方なかったんだ」とはそうそう言えない。
だって……僕自身、誰かの弱さを目にして遣る瀬なくなったり憤ろしい気持ちになることもあるんだから。
それを棚に上げて、自分だけ特別扱いはできない。

でも、弱くても愚かでも、それが本気だったのは間違いないわけで……。

だからせめて、あいつをこの世界のどこかに、なんとか位置づけてやりたいなと、そんなことくらいは思ってもいいのかなと、考えています。
それはこれからの自分に任せるべき課題といったところでしょうか。

***

誰に読ませられる代物でもない(少なくとも読まれていいものとして納得しちゃいない)ので、ひっそりと、更新通知もせずに置いておく次第です。