確かに確かに死んでしまっても、いいってときどき思うんだ。夜になったら明日を思って、明後日、60年後を思う。無意味だ無意味だ、なんにもならない、それならいっそと思うこともある。

 上手にごまかせ、傷をなめ合え、余計なお世話だ、今さら言うことか。

 僕たちはとてもきわどい、細い橋の上をそろそろと歩くようにして生きている。断たれてしまったつながりは戻らないし、今ある喜びは今だけのものだ。それのために僕たち生きている。笑って転がって、悲しいことは一旦置いておいて、僕の思い出したくもない暗闇はとりあえず覆い隠して。

 ねえ、今の喜びは将来やってくるいかなる悲しみの役にも立たない。喜びが失われたときに残るのは、ノスタルジーとぷっつり未来が断たれた感じだけ。ありがとうって過去に感謝したり、どうしてこんなひどいことがって泣いたり、ふてくされたり、あんなのは幸せじゃなかったって強がってみても、とにかくその喜びはもう思い出でしかなくなってしまう。

 次に来た悲しみと戦うのは、その悲しみの目の前にいる僕なんだ。今の僕とはもう関係のない、未来の僕に任せるしかない。備えあれば患いなし? 違うんだよ、備えてたって悲しみはただ悲しみとしてやってくる。だったら、僕にできることは何だろう。予期もできない将来の悲しみのために、役に立つかもわからない銃を磨いておくことか? いいや、悲しみに銃はきかないんだよ。悲しい思いをしたことのある人ならわかるね。悲しみのことについて、僕たちはそのときに目の前に現れてみるまで、何一つわからないんだ。

 ことごとく大好きな人たちの頭の上に、隕石が落ちてくるかもしれない。いま僕を支えているその大好きな人たちが失われた、そのときのことがわかるのは、その人たちを失ったそのときの僕だけだ。だって、僕はいまその人たちに支えられているからこそ、悲しみを想像しないで生きていられるんだから。包帯の裏の傷を見ないで済んでいるんだから。笑っていられるんだから。

 逆もしかりかもしれない。今を一生懸命生きろ、だなんて、通り一遍の文句、僕たちの貧困な想像力にはそうそう届かない。苦しくて傷ついて一人っきりで悲しかったときには、あんなに夢見た幸せな今が、もはや当たり前になってしまった僕たちに、その貴さなんてわからない。悲しかったあのときに立ち返って、今がいかに幸せかを想像してみる? 無理だろう。僕たちの想像力は欠陥だらけだ。死を想い、一生懸命生きる、なんて教義は、幸福な僕たちの役には立たない。あるいは、死を想え、死を想え、と形だけぶつぶつつぶやいているうちに、楽しい今は過ぎ去っていく。

 どうせうまく死ねやしない僕たち。死ぬために必要なのは、あまりに狂人であることか、あまりにも強靭であることだ。狂っているか、強すぎるか。吹き飛ばないかっちりしたネジが、きれいな脳みそを維持している僕たちは、お行儀よく生きていくとしようよ。楽しいも悲しいも嘘なんだよ。嘘だとわかってたって踊ろう。嘘だって楽しいんじゃないか、嘘だって悲しいんじゃないか。その気持ちはほんとさ。だけど楽しまされて、悲しいポーズして、そのことは忘れなくてもいいよ。何もかも嘘だらけだって、嘘の上に乗っかってる僕たちは空っぽだって。いいじゃない、それで。傷ついて泣けばいい。それはでも、ニセモノのために泣くんじゃない、本物のために泣くんだ。そのために、僕たちは嘘を生きてることをしっかり覚えとかなくちゃなんない。