結婚式に行った話と、何かを表現する話

結婚式に行った話と、何かを表現する話をします。
こう言っておくと、二本立てで話が進むんだってわかりやすくって親切ですね。
わかりやすさという親切の話は後半でやります。


      結婚式に行った話

従兄が晴れて結婚しました。
めでたい。やっぱり結婚はめでたいと思う。嬉しいと思う。従兄がいい人だからっていうのもあるな。
好意を抱いた人の幸せはやっぱり願いたくなるし、嬉しくなるものなんだと思いました。
これから大変なことがいっぱいある僕たちの前途ですが、従兄も幸せになってくれたら嬉しいです。

結婚したって幸せになれないよ、とか色々ありますが、僕はもう最近よくわからなくなっている。
器用な人も不器用な人も、みんなそれなりに幸せで不幸せに見えるから。
結婚とかどうでもよくないですか?
したっていいじゃないですか。
そこがスタート地点なんだよ、なんて言い方もありますけどね。
要するに結婚式の翌日から始まるのは、今まで見たこともない要素を織り交ぜた、今までの延長線の日常。
何が変わるわけでもないけど、世界の歩みと合わせて刻一刻進んでいく僕たちの人生。
ああ人生。
結婚もその一部じゃないですか。

明日僕が幸せになりたいように、あなたも幸せになりたいって思いながら生きてくださいね、って思うのは傲慢かしら。

あと、カメラ係になったらまず最初に「ちゃんと撮れてるかどうか」確認しなくてはいけない、それが最初の仕事だ、ってことだけ学びました。
Have a happy life.


      表現の話

誰にでもわかりやすく平易な面白さを提供するなら、ルールが決まっているのでそれをまずきちんと勉強しましょうね。

この文章はどっちだろう?
どちらかといえば好き勝手に書いている気がする。

好き勝手に書くというのは、自分の築き上げた秩序に他人を巻き込むこと、とまで言うと言い過ぎかもしれないが、この世界のルールをずらして別の世界を浮かび上がらせて見せる行為ではある。
新しいルール、新しい倫理、新しい秩序。

独自の世界観を作り、知的な営みが対象とするような表現は、頭のおかしなぶっ壊れた変態によってなされがちだけれど、それはそういう人たちが既存のルールへの違和感そのものだからだ。
違和感で生きているからだ。
自分を保って生きるには、正気で生きるには、この世界のことはさておき、自分のルールを形にしていかなくてはならない。
自分のルールで切り分けられた世界で自分の周りを囲わなくてはならない。
そうしなくては安心して夜もおちおち眠れないというわけ。

別に大衆がバカなわけでもなくて、ただ大衆にはずれたものが必要がないというだけの話だという気がする。
僕たちは実にうまく、自分にとって必要なものを選び取りながら生きている。
それが矛盾して人と人との間に軋轢が生まれることはままあるけれど、概ねみんな自分にとって何が必要かくらいわかっている。
黙って自分が必要なものを消費しながら生きているなら、それは立派なことじゃないのか。

話は飛んだけれど、表現の話だ。
つまり、表現には、他人との交感を志向するものと、自分が作った王国に他人を丸ごと巻き込もうとするものの二つのベクトルがある気がする。
音楽で言ったら、ミスチルのライブなんかを観ていると前者的な要素が強いなあと思うし、LUNA SEAなんかはずいぶん後者的に思える。
いま自分がやっている朗読なんかは、かなり後者的な要素を強く含んでいる。聞きやすいように、わかりやすいように、観客の反応と相互作用させやすいように、少しずつ本を書き換えている。

文芸批評なんかの仕事っていうのは、どちらかといえば後者的な志向の強いものの孕む秩序の分析なんだろう。

最果タヒが「きみはPOP」で書いていたのは、99%前者的なものに1%だけ後者的なもの(狂気と言い換えてもいい)を混ぜたものが売れるのだ、ということだったとも思う。

何回も今まで書いてきたことのようにも気がするし、自分でも書いているうちに面白みの欠片もないように思えてきた。
でも、昔は後者的なものを欠いた自分にうんざりしていたし、それがなくては表現なんかしちゃだめなんだと思っていた。
今はそんなことないんだと思う。

プラグマティックに考えるべきなのだ。
クソみたいな結果を世の中に撒き散らす表現じゃなければ、(きわめて最小限な意味で)無害でありさえすれば、どんな表現だって、少なくとも存在することは許される。
そして存在する以上、その存在の仕方だって多様であっていいはずだ。
僕たちがどうしようもなく多様であるように、そして誠実であることが賞賛されるように。



生え際後退してきてるね、って言われたときに抱いた感覚が、ちょっとだけ自分のおじさん度の高まりを自覚させた週末。