タイムカプセル

駆け足気味に昔の作品を読み直した。今日会った人が「昔の自分が描いたものが怖いくらい今の自分の現状を予言してて怖い」的なことを言っていて、と同時に「すぐれた作家の仕事の意義って時代精神の先取りにあるよね」という話もしていて、果たして俺の昔の作品は少なくとも俺の個人的な現状についてなんらか示唆するところのあるものになっていただろうか、と考えたのである。

結論から言えば悪くなかった。でもそれぞれに瑕疵があった。作品ひとつひとつが違うように、ダメさの方向性もひとつひとつ違っていた。

文体の問題については、牛歩の歩みではあるものの、時期を追うにつれて自分のスタイルを確立している部分が感じられて、その点は好ましかった。なんにも考えていなかったであろう最初期、何かを意識していたと思しき中期、ようやく力が抜けだした最近。脱力だな、とやっぱり思う。

作中で使いたいフレーズというのが浮かんでしまうと、それに固執してしまうときがままある。おそらく昔はほとんど無自覚にそれを繰り返していた。「このフレーズは良いから、絶対に使わなきゃダメなんだ」といったような執着がたえず頭の少なからぬ部分を占めてしまって、結果的に文章全体の自由度が奪われることになる。それじゃダメなのだ。スムーズな文章を書こうと思ったら、前に出てきたセンテンスに導いてもらう形で次のセンテンスを置いていかなくてはいけないし、あるフレーズをどうしても使わなくてはならないということが本当にあるのだとすれば、それはいつかしかるべきタイミングで登場を促され、そして次のフレーズを導く役目も果たしてくれるはずなのであって、無理をしてねじこむと確実に失敗することになる、というのが最近の実感である。例外については今のところ踏み込んで考えていない。

自分の文章の良し悪しなんてのは判定のしようもないかもしれないが、それでも自分が好ましく思うかどうか、という点を大事にすれば、あまり大きく外すこともないように思う。なるべく客観性を持つこと、好きか嫌いか以上の判断基準を持ち込まないこと。その観点でいえば、確実に昔よりも最近の作品のほうが良くなっている、というか自分で見返して「好きだな」と思う。

その点は多分内容面の良し悪しともかかわっていて、歳とともにいろいろ知ることによって(これかなり語弊のある表現だな)自分の求めているものがわかってくると、それを表現するうえでのモチーフ選びもしやすくなってくるのだろう。
小賢しくなるというのとは違うと思う。徹底している限りは、良いモチーフからはちゃんと良い作品が出てくるはずだ。徹底すること、甘えないこと。
歳をとるとともに作品が良くなるなんてのは進歩史観的で嫌な発想だ、とも思うけれど、しょうがない。たしかに歳をとったほうが良くなる部分もあるのだ。もちろん、若い頃の作品のほうが良い、というのだって主張としては正しい場合があるだろう。別にその二つは矛盾するわけじゃない。技術的な成熟や明瞭さの点においては経験がものを言うところ大だし、主張されている物事の生々しさは、場合によっては若い頃の表現が勝りうる。本気で作られたものについて語るうえでは、二つの主張が矛盾することはそうそうないだろう。

。。。

最近なんだか調子に乗ってるな、と自分で思う。いつも浮き足立ってるのだ。何かを成し遂げたわけでもないのに、どこか偉そうで、その偉そうな自分を捨てずに隠しておく技能に長けつつあるような気がする。
正直気持ち悪いのでやめてしまいたい。自信なんかいらない、というのとはちょっと違うのだけど、自分を甘やかしかねない自尊心だったら無いほうがましだ、とは常々思う。