フィクションにおいてであれリアルにおいてであれ、誰かと誰かが出会うことについて、の備忘録

備忘録程度。

 

もう何回も書いてきたことかもしれないけれど、自分が小説で書くときに一番壁にぶち当たるポイントというのが「主要人物どうしが出会う場面」だ。

うまく出会わせることができない。

どうしても、こんな近づき方せえへんやろ絶対!みたいな感じになったり、あるいはいつまでもうだうだして二人が出会ってくれなかったり、そこのところの試行錯誤で何度も心が折れそうになった。

 

おそらく「人と人が出会う」ということに対する自分の中でのイメージが間違っていたのだろう。いや、もっと正確に言えば、「僕にとって人と人が出会うとはどういうことなのか」について、自分自身が本当はどう認識しているのかを、今まで見誤りつづけてきた、ということになるか。

「出会いとは何か」という問いへの答えなんてものは、主観でしか語りようがないけれど(だって、プラグマティックに言って、人との出会い方なんてのは人それぞれではないか)、その主観を自分自身でとらえ損なっていた。多分。

 

簡潔に言おう。

僕にとって、出会いというのは意図せざるものでしかありえない。僕の中では、人は意図して他人と出会うことはない。

必ず環境、言い換えれば第三者的な契機、もっと言い換えれば自分から求めたのではなく相手とも自分とも異なるどこかから訪れた「きっかけ」が介在する。自分の「出会おう」という意志にのみ基づく出会いというのは、ない。

 

ナンパにしたってそうだ。女の子に手あたり次第ナンパしまくって、運よく釣れた相手と知り合っていく、みたいな出会いもあるはずだし、それは意志に基づいているように思える。しかし、それにしたってナンパ師は、女の子の見た目なり雰囲気なりから選別したうえで声をかけるではないか。完全に自分の「意志」で出会いに行っているわけではない。相手の外見という、相手自身とは若干切り離された、やや第三者的な契機が働いている。

やや、というのは、蓋を開けてみたらやっぱり外見と内面が分かちがたく結びついていた、という事態は往々にしてあるだろうからだ。その場合は、相手の見た目という相手に属する性質もあいまって、二人は出会うべくして出会いました、という言い方ができなくもない気がする。ただ、そこは賭けでしかありえない。そして賭けが始まるためには、相手自身(相手自身、って言葉を何度も使っているが、まあ相手の自我とか内面的な核とか自己とか、そういうふうな言葉で言い換えられるものだと思ってくれていいと思う)とは切り離された要素がスイッチを押してくれなくてはならないのだ。

 

ましてや、俺が書きたいのはそもそも「手当たり次第に誰かに声をかけて主人公が人と出会う」みたいな話ではない。今のところ。

特定の誰かがいて、別の誰かがいて、その二人が出会うところから始まる話を書きたい。

そして、俺の描く主人公というのは、往々にしてひどく受け身的で、なんだか中途半端に何もかも諦めたような、そして何もかもを諦めきれていないような、そういうやつであることが多くて、そんなやつだから人と積極的にかかわりにいくのをひどく億劫がってばっかりなのだ。

だから「きっかけ」、出会わざるを得ないような状況、といったものをちゃんとしつらえてやらないとどうしようもなかったりする。

 

考えてみれば、それは自分の人生の一つの核心のようなものでもある気がするのだ。もちろん、核に過ぎないから偏差はある。気分で隣の席の人に話しかけたりとか、何もかもが面倒で何が何でも誰と会うのも億劫になったりとか、そういう波はある。

にしたって、大概自分は人に対して受け身的なスタンスが強くて、そこのところから良くも悪くもいろんなものが生まれて、そのやるせなさをなんとかしたいから、自分の書く登場人物くらいにはせめて折り合いをつけてもらいたいと願うのだろう。

たぶん自分の書き物は、ひとつにはそういうふうに回っている。

 

こういう自覚を手にしておくことが、今後なにかの役に立ってくれるといいのだけど。