批評にびびらない、と自分に言い聞かせるために
寝る前に。
-批評について
宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」が好きで、数か月か数年に一回くらいの頻度でむしょうに聴きたくことがある。
この曲に限らず、宇多田ヒカルの楽曲は、とりわけ好きな数曲に関しては、ほかのアーティストと比べて密度が高いように感じる。
「光」にしても「Passion」にしても(完全にキングダムハーツをやっていた思い出と結びついてますね)、今日初めてちゃんと聞いた「colors」や「traveling」にしても。
PVもちゃんと見て、詞にも耳を傾けて、というエネルギーを使う聴き方をついつい促される。
BGMとして垂れ流しておくには少し疲れる感じがする。その重さがまたいいのかもしれない。
そんなわけで歌詞をしっかり追いながら聴いていたのだけど、途中で歌詞の解釈なんかもネットで拾って読んでいた。
いくつかの違うブログで批評みたいなことをやっていて、読み比べて少し思ったことを書く。
批評の内容についてはあまり深く踏み込まない。批評ってなんだ、という常々つきまとって頭から離れない問いに自分なりの答えを置いておくのが目的。
三つ違うブログを見たのだけれど、これが一番好きだった。
もう一つは「吉本隆明の共同幻想が~」「ラカンの鏡像段階が~」みたいな難しい言葉をガンガン使っていて、直感的に「あ、ハードル高すぎる」と思ったのだった。
あともう一つは、歌詞の解釈というよりはどちらかというと楽曲の音作りの話が中心だったから、ちょっと違うなと思った。
同じもの(正確には同じ楽曲について論じていたわけではないけれど)について話していても、全然違う語り方がされていて、それに対して自分の好き嫌いもはっきりあるんだなあと思ったとき、批評もやっぱり一つの表現なんだという感じがリアルに起こったのだった。
たぶん読む人が変われば好きな文章も違う。
しかし反面、実際のところ語っている内容にそのものにはそこまで差はないとも思うのです。
言ってみれば自分と楽曲の距離感がどれくらいとられているか、誰にでも分かりやすい扱い方をしているのか個人的な扱い方をしているのか、における違いがあるだけだという気もする。
表現というのは、あらすじ的なものにどう肉づけをしていくか、肉づけをすることでいかに「表現したいもの」に肉薄していくか、だと僕は思っている。
そうなるとアプローチの仕方は変わってくるだろうし、その間で良し悪しは必ずしも決めがたいものがある。
結局表現する人のふれている「文化」みたいなものが、その人の表現のあり方を決めてしまう部分があるだろうし。
マンガが好きな人と純文学が好きな人では、ある作品を読んだときに直感的に何を感じるかなんてまったく変わってくるだろう。
吉本隆明はたしかに「百回読んだあとで誰にでも良いとされる作品こそがすぐれた作品だ」と言っていたけれど、結局百回読んだあとで何かについて語る人なんてそうそういないはずだ。
そもそも、制約のある中で「百回」に相当する読み方をできるか、なんてことを本気で問題として考えている人じたい相当限られているに決まっている。
物事への感想はばらつかざるをえないし、たとえ「百回読んだに相当するくらいの鋭い読みの上に立つ優れた解釈がなされている」といった批評がでてきたとしても、それが優れていると感受されるのは、きわめて限られたグループの人たちの中でだけだろう。
批評だって結局のところつきつめれば表現だ。
わかる人にしかわからない世界の物事だ。
今ちんたらと『学問の力』(佐伯啓思)を読んでいるけれど、学問にしても、本来は「社会のはずれ」みたいなところで、希少なお酒を黙々と熟成させていくかのように営まれていたものだと書かれてある。
別に誰にでもわかるような正解を一発でバーンとぶちあげるために頭をひねるのが学問ではない。
学問の世界でしかわからないようなことを延々とやり、その積み重ねをしていくことが学問なんだろう。
そういう意味では、学問の一番大事なところは、これまで長い時間をかけて蓄積されてきたものを「保存していること」であり、その蓄積をこれからも地道に重ねていこうとする姿勢そのものなのかもしれない。